酒:タンカレー(ソーダ割

 

 

7泊の研修に出かけていた。

書いたつもりだったけれど、

「あ!明日から研修なのにこんな時間になっちゃった!」

と、酔ったまま書いた散逸な文章を全て消したのを思い出した。

 

なんとも情けない。

 

再来週にも、そのまた次の週にも研修が入っている。

なぜだかわからないが、書類仕事も多い。

 

今日はその愚痴でも書いておこう。

 

 

非常に悩ましいことに、宗教者の書き物には、教義上の視点というものがある。

強く世界平和だとかを押し出す必要はない。

しかし、知性については別だ。それが悩ましい。

 

知ろうとするとか、知らなければならないということは、

時には仏教にとって必要がない。

無知は罪だと言ったのはソクラテスだったか。

ソクラテスの本意は知らないが、無知によって好奇心を起すのが人間だ。

視座と焦点の問題だろうか。

 

例えば、無記という言葉が仏教にはある。

そこには、仏道修行において意味をなさない問いの例が挙げられる。

例えば、前世は何であったか、来世は何になるかという問いや、

自己を自在にできるのか、これから何者になれるのか、という問いである。

 

究極的には、有るのか無いのか、これから有るのか無いのかということで、

ペンを投げる分野であり、ペンを投げる分野である。

どちらにしても書き残して見返してもペンを投げる。

どうやら、三回も筆を投げてしまうようだ。

 

しかし、わからないから知りたいという気持ちは抑えようがない。

自分の中に解答欄ができてしまったのだから、空欄にはしておけないのだ。

 

上記の問いについて、

「これは、今すぐにはわからないことじゃないか。」

と思うかもしれない。

確かに、問題には解答時間が必要だ。

また、それに再現性や法則性がなければ納得もできないだろう。

再現性を求めるのが知性と言うべきか、科学的というべきか、論理的というかは、

ちょっとあいまいだが。

宗教観に基づけば、科学的というのは無理があろうことは判明する。

 

 

そういう好奇心が振れる先の「答えのない問い」について、

真正面から向かい合っていく人というのはかなりいるし、

私が冒頭で書いたように、気を付けていても振れていることがある。

簡単に言えば、扱うと穴に落ちる主語というのが存在するということだ。

 

 

涅槃というような、煩悩の一切が滅した状態が基底になる仏教観は、

その示しはあるものの、どこからどこへ?なにからなにへ?について、

知らなければ求道しませんという話にはならない。

であるから、「涅槃とは」「自己とは」「人間とは」を確定させてはならない。

ぎりぎり、シンボリズムに則るのは百歩譲れよう。

 

それらが何かを知ることが目的なのが宗教的救済になってしまえば、

個々の不安は、何を知れば解決されるのかという現実主義的な枠から出ず、

いつまでも不安のループからは解放されないのだ。

 

知るということそのものが問いであるとも言える。

頭痛が痛いとはよくいったものだ。

 

 

そんなこんなで簿記は明日から再開するか決めていない。

やったりやらなかったりがしばらく続くだろう。

 

ただ、5月末には3級の試験だけでも受けたいと思う。

 

飲み終わったので今日はここまで。