酒:ホワイトホース(ハイボール

つまみ:ペペロンチーノ

 

 

こりずに麺をつまみにする。

フライパン一つで作れたりする、ペペロンチーノのレシピ。

 

ニンニクカリカリが好きなので、スライスを途中で取り出す調理をする。

 

 

繁忙期じゃないのに、忙しいというか・・・

あちこちに打診したり声掛けしたり、打診されたり声掛けされたりしている。

 

坊さんは横のつながりというか、お隣さんとのつながりみたいな感じ。

会社で同僚とどうのというようなこととは少し違う。

むしろ、印象に残ることに価値がある。

あいつは仕事が出来るとか、そんなのはあまり見ることはない。

あの人名前なんだっけ・・・という方が損する気がする。

マイナスはプラスの糧だ。

 

種か?

 

今日も簿記の時間はなかった。

というか、そういう繋がりから葬儀の依頼があったり。

 

ありがたいが、準備も大変だし、時間がとられる。

亡くなった人と周囲との関係等、一から聞き取らなければならない。

そうしなくても「坊主」を見せることはできるけどね?

 

葬儀は一回きりだ。

死ぬということ自体は実体を意味しないというのを言った人がいる。

今の命を実感するところに実体を感じるだろう。

手があり足があり、痛みがある。動かなくもなる。

その実体への別れの時という終着でしかないという。

 

命の反対は死ではないと、その人は言うだろう。

生まれるの反対は死ぬということだろうが、

生きているの反対は生きていないという他者からの視点になるのではないか。

 

 

話がそれるが、死後に何が残るかは、霊魂を信じるとか、

宇宙というような大きい枠組みで共有される残滓になるとか、様々だ。


宗教的なこととして置き換えれば、命の時間軸ははるか先まで伸びたりする。

特に仏教は輪廻をもって展開する。

 

何が輪廻してるんだろうかというのは、

現実主義、理性的な発想が基底にあるように感じるが、

まぁ、もともとそういう理法を求めていたところがあるから正しい疑問だ。

 

元に戻す。

 

生きていた人が死んだ、というのは、他者が経験する限りだ。

そして、その事実を知って、弔わなければと思う。礼儀といっていい。

親族から知人に知らせて回るだろう。

 

誰が悲しむか、誰にとってどういう事実であるのかは重要だ。

葬儀を務める坊さんが勝手に考える上でも知っておかねばならない。

 

今聞いている最中だ。

 

連絡は明日になるだろう。

 

飲み終わり、過去の法話ノートなんかを見かえしたので、今日はここまで。