居合道を始めたきっかけ。
剣道の道場の館長先生が「居合道もやれ」と仰って。
剣道にも通じることだ、居合をやって剣居一体、両方と高めよ、と。
ただ、稽古の日数や時間が増えるし、なんかハードルの高さを感じて二の足を踏んでいたが。
そんな折、県外へ出稽古にいく機会があって。
そちらの道場主の先生、剣道も居合道も指導者で。
その先生が次のように仰って。
「居合は人を、他人を切ろうってものじゃない。自分の弱い心を目の前に思い描いて、それを敵として切るんだ」
その言葉に妙に納得して。
「あぁ、それならオレはなんぼでも切らなきゃいけない自分があるじゃないの🤣」と思い、甲府に戻ってすぐに「居合を始めます」と。
以来、居合の演武で仮想敵とするのは自分。
だが、なかなか敵として目の前に誰かがいるという感覚を持つのは難しい。
それも自分だ、と思うと頭の中がまとまらないこともある。
ま、とにかく、他人の誰かを想定することはしていない。
演武の最初と最後に行う礼法があるが、これも前に敵がいると思って油断なくやれ、と教えられるのだが。
同時に品格、品性を持てともいわれる。
最近、礼法でやっているのは、校長先生が目の前にいるつもりになっている。
ある学校の校長先生とお話しする機会があって、私のような者にも礼を尽くしてお話しいただいて感動したんですが。
その先生が目の前にいるつもりで、しっかりした礼をしようと考えてます。
すると、居合の研究会で、「礼が以前より良くなってきた」との評価をある先生からいただいて。
これは効果ありだな、と。
さて、その演武で「敵を切る」という敵。
これを自分にせよ、ということなんだが。
まぁ、修行ですね。
自らを正せ、と。
戦国の世の中だったら、自分の命を守る技術を養うために、敵を想定して切るという稽古をしたはず。
今はそんな殺伐とした時代じゃない。
居合も「居合道」と道として自分を高めよ、というものになっている。
そうは言っても「切る」という動作をする。
そこに対象物があれば切っている、対象物は人間でこちらに向かってくる存在。
そういう想定をしないと「武道」の「武」の側面が曖昧になってしまう。
「演武だぞ、演舞じゃないぞ」
とよく言われる。
さあ、むずかしい。
そして、いつもいつも自分を目の前に想定するのは、正直言ってちょっとしんどい。
で、最近、これまたひらめいた。
先日の稽古でもやってみた。
制定居合一本目、柄を取り、鞘から抜きだし敵の顔へ抜き付ける。そこから振りかぶって真っ向切り。そのあと残心動作へ入って納刀していく。
このときに、心の中で呟いた。
(抜き付け)き~ぶぅ~つぅ~じぃ
(真っ向切り)むざあああーん
(残心動作)ぜぇええええったいにぃ~
(納刀)にがぁぁぁさなぁぁいぞぉぉ~
鬼滅、アニメの見過ぎ、コミックの読み過ぎでしょうかね
🤣🤣🤣
え?
その後の稽古ですか?
えぇ、私の頭の中は上弦の鬼達、無慘と斬り合いしてました🤣
まるで柱に加わったかのように。
最後の礼法では、目の前にいるのは校長先生からお館様に・・・
🤣🤣🤣
ジジイが何やってんだか・・・🤣
あ、でも、これ、想定としてなかなか良いっすよ🤣
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