「命のバトン」って、ご存知ですか?
私に命を繋いでくれた父と母。その両方にも父と母、その4人にも父と母、その8人にも父と母・・・というふうにさかのぼると、ものすごい数の人から、命のバトンが私に手渡されたんだなあ、
というふうに、自分の命の大切さをイメージしよう、という考え方。
これは考え方なので、正しいとか正しくないとかを論じる必要はないと思います。
まあ、好きか嫌いか、くらいかな?
でさ、私はこれが苦手でさ。なんたって天の邪鬼だからねえ。
太古から、人口は増加の方向にあるはずなのに、なぜかものすごい逆ピラミッドが描けちゃうというなんか、騙されてる感がね。疑い深いからね。
ってか、重いんだよね。そんなにたくさんの人の命に、わたしゃ責任持てません。
なんでこんな図になっちまうんだ? と思って、そうだよ、兄弟がいるじゃんよ、と思いついて、夫婦から子ども3人に責任分散する図をイメージしてみたら。
子ども一人当たり責任2/3で、そういうの同士が結婚すると合わせて責任4/3で、そこから子ども3人だと、責任4/9で・・・ってどんどん薄まっちゃうよ今度は!
やっぱりさー。ひとりの命の重さは先祖の分を足したり兄弟で分けたりするもんじゃないな、私にとっては。ひとりの命はいつも一人分。私にはそれがすっきりする。
こんな私が、自分の命の奇跡を思うのは、実はこんな考え方。↓
私の身体を作っている物質に思いを馳せる。地球上にある物質は、増えたり減ったりしていなくて、ずっとぐるぐる廻っているだけ。もう何億年も、ぐるぐる廻って、いろんなものになっている。
たとえば今私の骨になっているカルシウムは、その前は小松菜の細胞壁だったかもしれない。その前は土の中だろうな。その前はカタツムリの殻だったかもな。その前は・・・?
赤血球の中の鉄は、多分最初は鉄鉱石? いろんなことやって、ここまで来て、今私の肺から酸素を受け取って、細胞まで流されて行ってそれを離したりしてる。ふふふ。
今私の身体を作っている物質が、「私」をやっているのは、その物質にとったらほんの一瞬だけ。私の命は、ほんの一瞬のきらめき。
「私」をやるのが終わったら、またすぐほかのものになる。「私」をやっていたことなんて、どいつも覚えていない。どこにも、そんな痕跡なんてない。
そんなやつらが、一瞬だけ「私」という場で出会って、一瞬だけ一緒に「私」をやってて、そのおかげで「私」が発生して、いろんなことを見たり感じたり考えたりする。
それはもう、そのこと自体がすごく面白くて、面白くて、それだけだ。
人生の意味、とかいらないし、何のために生きる、なんていうことを求める必要もないくらい、それはそれだけで輝いていて、そしてそれだけなんだよね。
このことを思うとき、私は体の隅々にまで喜びが行き渡るのを感じるんだ。
そして、死んだってなんでもないんだな、って思って楽になる。
これはね、虚無的に感じるかもしれないけど、違うんだよ。
私は、自分が地球上の物質の、命という現象であるということに、すごく満足感を感じているんだ。
これをね、感じられる場所というのは、いろいろあるとは思うんだよね。
たとえば、私が学生の頃付き合っていた人は、彼も学生だったけど、「もし自分が宇宙で一人きりの場所にいても、宇宙船の窓からなにか星が見えたら、それで大丈夫さびしくない。星も仲間だから」って言っていた。
それは究極だなって思うけど、私はやっぱり、地球というか、大地や自然を感じていたほうがこの感覚を無くさずにいられると思うんだよね。
まあ、都市でだって命は物質を集めて命を紡いでいくんだけどね。だけどやっぱり・・・。
だからなんだ。私はここを手放したくないんだ。街中でアパートに住んで、賃労働で長時間働いて、食べ物が商品としてしか手に入らないとしたら、私は自分が簡単に病むような気がするんだよね。
ここを、モラハラから逃げるという形で失って、結局家庭というものに失敗して、夫婦で分与するお金だってなくて、自然とのつながりを感じにくい生き方をするのだったら、私はきっとダメになるような気がするんだ。
仕事という意味じゃないんだ。たぶん、ここを手放せないのは。
ここから得られるものに比べたら、モラ夫なんて、すごくちっぽけなものだからね。