自分の冷酷さには自信がある | そして、私はモラをつかむ女

そして、私はモラをつかむ女

夫がモラです。モラからは逃げるが一番。でもつかんでしまった以上、一緒にいなければならない期間もある。どう過ごすのか。モラのダメージを受けない方法を模索し、自分の何がモラを寄せてしまうのかを考えます。

 私の両親は教師で、熱心な組合活動家だった。


 いつも会議で、晩ごはんの後毎日のように二人とも出かけていた。でもたぶん、8時前には帰ってきていたと思う。


 私は、親がいない間、禁じられている民放のTV番組をこっそり見られるので、親が出かけるのが楽しみだった。見たい番組があるのに出かけないと、心底がっかりした。


 でも、5歳下の妹は、夜になると足を痛がって泣いた。母親が撫でてやらないと、ほかの人では痛みが治まらないらしい。


 小学校3年生の時(もしかしたら4年かも)、同居して私を育ててくれた母方の祖父母が、2人目の子どもが生まれた叔父夫婦と同居することになった。


 そこから、夜は妹と二人になった。


 足を撫でても泣きやまないので本当に嫌だった。



 4年生だったある夜、両親とも家に帰ってこなかった。うちには電話がなかった。周りのほとんどの家にはとっくに電話があったのに、うちには無かった。電話がない家はもうめずらしかった。


 とにかく帰ってこなかった。


 私は、初めて、強烈な不安というものを経験した。心臓がどきどきした。事故にあったんだろうと思った。


 そのとき、私は何を考えたと思う?


 たぶん、この中の誰にも当てられないと思うよ。




 私はね、明日学校へ行ったら、両親が死んだという挨拶を、前に出てクラスのみんなにしないといけないのかな。先生に呼ばれて、教壇に上がるのかな。何を言えばいいんだろう、って思ったんだ。



 結局11時ころ、親は帰ってきた。


 もうちょっと遅かったら、私は本当に挨拶を考えて、着る服も考えていたかもしれないよ。


  


追記: 一応、私の環境書いておくね。

 私は母親が勤務している小学校に入学。家には同じ学校の教師たち(組合員)が会議で集まることが週に1回くらいあった。

 家は教員住宅アパートで、うちのドアの向いが私の3・4年のときの担任の家。

 担任は組合活動家の敵、教育委員会や校長におもねる側の期待の星みたいな存で、海外研修に行ったりしていた。

 当時、教職員組合活動は非常に活発で、ストライキも多く、処分も多く、親は家をよく空けたし、家にいる時もずっと両親はその話をしていて、私や妹は親とろくに口をきくこともできなかった。

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