●「最終処分場は迷惑施設じゃない」が生まれるまで

前候補地狐禅寺にて過激な反対がありました。また、過去に「当地区を処分場にしない」という市との覚書があったにもかかわらず進めてしまったという醜態を晒してしまいました。

この行政の大失敗によるトラウマが、今回の千厩北丿沢最終処分場に大きな影響を与えていることは確実です。

こんなことはもう懲り懲り。予算も無駄にできないし次は絶対に失敗できない。

同じことがまた起きたらどうしようと考えた結果、
「土地取得容易性を重視して住民合意は重視しない」という方針になったと考えるのが自然です。

そして「民意軽視」とバランスを取るように出てきたのが「今の最終処分場は迷惑施設ではない」という考え方です。

「なぜ民意・住民合意は重視されてないのか。」
「選考プロセスに住民への配慮が全くないのはなぜか。」
「評価項目に民意や住民合意に関するものがないのはなぜか。」

それは

「最終処分場は迷惑施設じゃないからです。」

という問答形式ができあがりました。

●「最終処分場は迷惑施設じゃない」とする理屈は妥当か。

私個人としては、ゴミ処分場が迷惑施設ではいと言われて説明を受けて納得する方がどのくらいいるか世間に問いたいです。

例えば最終処分場を迷惑施設じゃないからと言われて家の隣に急に作り出したらどうでしょうか。

到底受け入れがたいことだと思います。

やはり最終処分場を迷惑施設じゃないとするのは世間一般的にもかなり無理矢理で異例であると思います。

今までの「迷惑施設である」というイメージがあるということを考慮して、住民への配慮は必要だと考えるのが至極まともなことであり、非常に倫理的・一般的であると思います。

田舎の街にはさまざまな課題があります。
人口減少、まちの衰退、行政への無関心など。

最終処分場は迷惑施設ではないから住民への配慮はしないし民意も重視しないというのは、田舎の課題を踏まえて、住民と寄り添おうとしなければならない今の時代に逆らう異例なものだと思います。

いくら行政が迷惑施設ではないと思ったからと言って、今までの迷惑施設であるという処分場のイメージがある以上、住民への配慮や民意を大切にすることは当然のことです。

今の時代では、最終処分場は迷惑施設ではないから民意は軽視したというのは通じないでしょう。


ちなみに迷惑かどうかは「主観」に頼るものです。同じく安全かどうかも結局は主観になります。

住民の主観を束ねるのが行政であり、行政の主観で民意を束ねるのはあってはならないことだと思います。



ではなぜここまで民意や住民への配慮を排除してるのか。
それは、少しでも住民へ配慮すると、千厩北丿沢が候補地から外れてしまうからです。

続く