少し暖かくなってきた3月の夕暮れ。
6時と言えど、仄かに明るさが残っている。
今日は一人の夕飯だ。
我が家の可愛い息子たちは二人で外食らしい。
どうやら上手くいっているようで、
嬉しいような、寂しいような、父親としては複雑だ。
二人が幸せなら、それで十分なんだが……。
帰っても一人じゃ味気ない。
久しぶりに少し飲んで帰ろうか。
昔、雅美と行った店がこの辺にあったはずなんだが……。
大通りから路地裏をちょっと見回す。
すぐの所にあったはずのその店は、看板も店名も変わっている。
そりゃそうだ。
雅美と行ったのはもう20年近く前の話。
私ももうすぐ四十だ。
店が変わっても当然だ。
いや、店があるだけよかったと思うべきか。
特に行きたい店があるわけではない。
入ったことのないバーに一人で入るのも、大人の遊びという感じでオツだ。
あの頃は雅美の手前、慣れたように振る舞ってはいたが、内心はドキドキだった。
今思うと、雅美や店の人にはバレていたに違いない。
それでもそっとカッコつけさせてくれた。
雅美はそういう女だった。
そういう良い所はしっかり智にも受け継がれている。
きっと二人も今頃は……。
明るいエメラルドグリーンに、濃い青で書かれた看板を見る。
Lotus。
確か蓮のことじゃなかったか?
初夏にポンと音を立て、潔く咲く花。
洒落た名前だ。
重い扉をそっと引く。
「いらっしゃいませ。」
中から明るい声が聞こえて来る。
店は入るとすぐにカウンターになっていて、そのカウンターの中から、
人懐っこい笑みがこちらを見ている。
手に持ったグラスと布巾がキュッと音をさせ、止まる。
その長い指がカウンターを差し示す。
私は軽くうなずいて、カウンター席に腰かける。
さて、何を頼もうか。
バーなど久しぶり過ぎて、ハイボール以外思いつかない。
せっかくだからカクテルを頼みたいのだが……。
バーテンダーがグラスを棚に戻すと振り返り、またニコッと笑う。
笑顔がどこか雅美に似ている。
雅美のことを考えていたからだろうか。
私は彼の奥に並んだ瓶を端から見つめていく。
酒の瓶は美しいものが多い。
ラベルだけでなく、瓶の形、色、全てが洗練されている。
まずは水割りで一杯いくか。
キレイな顔立ちの青年が背筋を整えて私に向き合う。
「なにか……。」
「ん?」
私は瓶から目を彼に向ける。
「とても良いお顔をしてらっしゃいます。」
……。
これはどういう意味だろう?
カッコイイと褒められたのだろうか?
にしては、言葉のニュアンスが違う気がする。
私の顔を見たバーテンダーが、慌てて顔の前で手を振る。
「すみません、言葉足らずで……。何か良いことがあったのかと思って……。」
ああ、そういう意味か。
「ああ、そうだね、良いこと……、そう、いいことはあった。」
バーテンダーが笑って私の言葉の続きを待っている。
「この店を見つけた。それがいいことかな。」
私がウィンクして見せると、バーテンダーが驚いた顔の後、クシャッと笑う。
ああ、本当に笑うと雅美によく似ている。
クシャッと皺の寄る目尻も、口が大きく広がるところも。
周りを幸せにする笑い方だ。
「妻とね、来たことがあるんだよ。ここに前にあった店に。」
「ああ、そうなんですね。じゃ、今度は僕がラッキーだ。」
私は首を傾げて彼を見る。
「ここに店を出したおかげで、こんな良い顔の人に会えた!」
くったくなく笑う顔に白い歯が眩しい。
この顔に良い顔と言われると……こそばゆいな。
照れ臭さを隠すように上着を脱ぐ。
「そうかな。私はあまりいい客にはなれないよ。」
どうして?と言うように今度は彼が小首を傾げる。
私は隣の席に上着を乗せる。
「外で飲むことはあまりないんだ。家で飲むのが好きなものでね。」
「では、今日は……。」
「本当に久しぶりなんだよ、外で飲むのも。ウチには可愛い息子が二人いてね。」
「それは勝てませんね。本当に今日はラッキーだ。」
「そうなんだよ、家より心地いい酒を飲むのは難しい。」
二人でクスクスと笑う。
バーテンダーの穏やかな声のトーンとモノトーンの店の雰囲気が落ち着く。
「何になさいますか?」
さて、何を頼もうか。
「そうだな……何かカクテルが飲みたいんだが……、
久しぶりすぎて、何を頼めばいいかわからない。」
「ベースのお好みはございますか?」
「いや、なんでも大丈夫。何かオススメを作ってくれる?」
「かしこまりました。」
バーテンダーはニコッと笑って浅めのロックグラスを取り出す。
「息子さんたち、寂しがっているんじゃありませんか?」
「それが、外食していてね。家にいないんだよ。」
「外食?奥様と?」
彼は手にした氷を手の上でコロッと回す。
手の平の上にちょうどいい大きさの、丸い氷だ。
「いや、息子たち二人で。」
薄っすら白い氷を見ながら、私も答える。
「いつの間にか自分達で行動できる歳になった。」
「子供の成長は早く感じるものです。」
氷がピックで叩かれると、しぶきのように氷が飛ぶ。
「いつまでも可愛いままではいてくれないか?」
私が上目遣いで彼を見ると、雅美に似た顔がクスッと笑う。
「いつまでも可愛くてしかたないって顔、してらっしゃいますよ。」
いつの間にか入れられた琥珀色の液体に、丸い氷がポトッと落ちる。
グラスにレモンを添えると、バーテンダーが私の前にコースターを置く。
エメラルドグリーンの上に濃い青で描かれた蓮の花。
店名のロータス。
「オールドファッションドと言うカクテルです。」
まるでウイスキーロックのような酒が、私の前に差し出される。
私がグラスを持ち上げると、丸い氷がクルッと回る。
グラスに当たるカチッと言う音が心地いい。
一口、口に含み、ゴクリと飲み込む。
甘い甘い口当たりと優しい飲み口。
なのに、ズンと来るウィスキーの香とパンチ。
「私はこんなに甘く見えるかい?」
バーテンダーがクスッと笑う。
「はい。どこまでもお子様に甘いように見えまして。」
あの顔で言われると、雅美に甘すぎると言われているようで、
なんとも言い難い不思議な気持ちになってくる。
「カクテルにはカクテル言葉と言うのがあるんですが、ご存じですか?」
「いいや、知らないが、このカクテルにもあるの?」
「はい。」
私はもう一口口に含み、グラスをコースターに戻す。
「『我が道を行く』……このカクテルに付けられた言葉です。」
我が道を行く……。
口の中で復唱し、もう一口飲む。
見た目はカッコいいロックに見えて、その実、こんなに甘い。
あの頃の私のようじゃないか?
カッコつけても、甘さは隠せない。
でもそれでいいのだろう。
隣で雅美は笑ってくれていた。
今だって……。
どんなに親だ、大人だと言ったって、あの子たちにはこのカクテル以上に甘くなる。
可愛いんだから仕方ない。
愛しているから……甘くもなるさ。
我が道を行く。
私は私の道を行く。
どこまでもとことん甘くなってやろうじゃないか。
あの二人が笑ってくれるなら。
あの二人は……我が道を行ってるな。
「息子たち、今日はバレンタインのお返しに食事に行ってるんだよ。」
「お客様のお子様なら、モテそうですね。」
「どうかな?イケメンだとは思うんだが……。
優しさはこの上ないし、上の子は料理も旨くてね、
下の子は勉強もできてなんでもよく知ってて……。」
バーテンダーがニコニコ笑ってナッツの乗った皿をカウンターに置く。
うん。二人の話は尽きない。
今日もいい酒が飲めそうだ。
カンパイ・ソングの潤パパ編