あれから数年が経った。
社会人になった彼は、信号待ちの先に佇む古本屋を見てあの店のことを思い出していた。
あの後、何度かあの古本屋へ行こうとしたが辿り着くことはできなかった。
店を出て気づいたのだが、あの店は古い商店街の端に位置していて、
その辺りまで開発の波は押し寄せていると何かで聞いた覚えがあった。
その記憶の通り、商店街の店は、多くがシャッターを閉めていた。
期限があったのは、そういうことだったのかもしれない。
もちろん、あれ以来店主には会えていない。
だが、あの時もらった本は今も彼の本棚に並んでいて、時折タイトルをなぞっている。
すると不思議なことにあの時の感覚が蘇り、
どんなに疲れている時でも、穏やかで安らいだ気持ちが広がっていくのを感じた。
表紙に描かれている、いろんな色で揺らめく炎を見つめると、どこからか自信も沸いてくる。
タイトルとはかけ離れた表紙に見えたが、それがまたよく見えた。
信号が青へと変わる。
歩き出した彼は古本屋へ向かって進んで行く。
古本屋の戸が開き、紙袋を持った青年が出て来る。
目が合った瞬間、あっと声を上げた彼は、古本屋に向かって走り出した。
「え?」
とまどう青年の前に立ち止まった彼は、息を切らしながらニコッと笑う。
「や、やっと会えた!お、俺……あの時、名前、名乗らなかったから……。」
はぁはぁと大きく深呼吸し、彼は天を仰いで青年を見る。
「俺、櫻井。櫻井翔!」
ポカンと口を開けたままだった青年が、あの時と同じようにふにゃりと笑う。
ああ、あの本と同じ感覚だと彼は思った。
安らぎが広がって行く感覚。
そう思う彼を後目に、青年がクスクスと笑い続ける。
「あの本……まだ持ってる?」
「持ってる。なんなら昨日も手に取った!」
青年がクスリと笑って、重そうな紙袋を右手に持ち替える。
「そっか。きっとじーちゃんも喜んでる。」
「おじいさん?」
「うん。あの本、じーちゃんにもらったんだ。じーちゃんもあの本に助けられたからって。」
「そんな大事なもの、俺がもらっちゃっていいの?」
青年は、笑って軽く顔を振る。
「いいの、いいの。あの時、あの本が必要だったのはきっと……櫻井君だから。」
名前を呼ばれてドキッとした彼が、照れたように頭を掻く。
「お、大野君は今何を?」
「おいら?おいらは……絵の勉強してる。」
「絵の?」
「うん、したことなかったから。
カイトをさ、捕まえようと思って。」
青年の笑顔に、彼もうなずく。
「櫻井君は?」
「翔でいいよ。俺は出版社でサラリーマン。」
彼が手を広げてスーツを見せる。
「出版社?すごい!」
「あの本の影響だよ。あんな本を世に送り出したいと思って。」
「へぇ~、そっか。」
青年が嬉しそうに笑って、また紙袋を持ち直す。
「あ、ごめん、忙しいよね?よかったら……アドレス交換しない?」
彼が言うと、青年は少し戸惑った表情を浮かべたが、ポケットからスマホを取り出した。
「いいよ。今度、ゆっくり話そうよ。」
彼も嬉しそうにスマホを開く。
やっと、糸の端を捕まえたと思った。
一時は本当に夢だったのではないかと自分の記憶を疑いもした。
でも、本はある。
表紙をなぞりながら、夢じゃないと自分に言い聞かせた。
青年からもらった『カイト』と言う本は、彼の人生を一変させた。
一変させたと言うのは大げさか。
それでも彼に大きな二つの影響を与えてくれた。
アドレスを交換して、彼はニコッと笑う。
「じゃ、また。」
「また!」
重そうな紙袋に、体が曲がる青年の後ろ姿を見つめ、彼は思う。
飛ばしてしまったカイトの糸の端、もう二度と手放さないと。