パキッ。
足元の小枝が鳴る。
柔らかい土に足が沈む。
樹々に遮られた太陽を仰ぎ見る。
揺れる木漏れ陽が、俺の視界を奪う。
近づくにつれ、バクバクと大きくなる鼓動。
ヒンヤリした空気を、思いっきり吸い込み息をつく。
ブルッと体が震え、少し、落ち着いてくる。
鬱蒼とした森の奥の奥。
ここに来るのは15年ぶり。
あの頃は毎日来ていた。
毎日、毎日、ここに来る為だけに起きて、
ここに来る為だけに学校に行っていた。
いや……。
正確にはそうじゃない。
あの人と会う為だけ……。
その為だけに生きていた。
ただ会いたかった。
一緒にいたかった。
それだけで全てが満たされていた。
目の前に、あの懐かしい小屋が姿を見せる。
荒れ果て、下草と樹々で、ほぼ隠された扉。
まるで、誰も近づけないよう隠されているようで……。
ゴクッと唾を飲む。
この扉の向こう……。
この懐かしい小屋の中に、あなたはまだ……いる?
久しぶりにかかって来た親父からの電話は、お見合いの話だった。
「いいよ、俺、まだ結婚なんて。」
「そうはいくか。わしらだって孫の顔は見たい。
お前は櫻井家の跡取りなんだからな。」
うちは、田舎じゃちょっと名の知れた肉屋をやっている。
爺ちゃんの代では小さな肉屋だったのに、
親父は結構商売上手で、牧場と提携して地元の牛を作ったり、
中国に勉強に行って、養鴨を始めたりして、結構大きな肉屋になった。
地元のホテルに卸すくらいには。
「で、いつ帰ってくるんだ?」
「帰る気はないよ。」
「何だと?じゃ、お前はこの家を継ぐ気はないんだな!?」
「そうは言ってないよ。」
「だったら今週末、一度帰って来い。
話はそれからだ。」
プツッと電話が切れる。
親父はいつもそう。
ワンマンにありがちな、人の話を聞かない人種。
ハァと息をついて、ソファーの上に横になる。
俺だってわかってる。
親父たちも年老いる。
大きくなった店を、誰かが継がなきゃ従業員が露頭に迷う。
妹はすでに嫁いだ。
争いなく、円満に継げるのは俺だけだ。
わかっていても、田舎に帰ることに躊躇する。
都会の生活は快適だ。
上司は面倒だけど、仕事もまぁまぁ、やりがいもある。
だけど……。
また溜め息をつく。
「俺も……そろそろ身を固めるべきなのかな……。」
天井を見ながらボソリとつぶやく。
いつまでもこのままでいるわけにはいかない。
わかっていて、15年の月日が経った。
帰ることに待ったを掛ける俺と、帰った方がいいとせっつく俺。
ずっとどっちつかずで流れた時間。
ただ過ぎるだけの時間……。
結婚すれば……何かが変わるんだろうか?
壁にかかったカレンダーに目をやる。
今週末、特に予定は入っていない。
寝転がったまま、テーブルの上の缶ビールに手を伸ばす。
生ぬるいビールは……苦みだけが、ざらっと舌に残った。
週末家に帰ると、とんとん拍子に見合いの話が進む。
おふくろが、いそいそと釣書を持って来る。
相手は隣町の薬屋の娘。
美人とまではいかないまでも、笑顔の可愛らしい有名大学出の才女だ。
父親は、薬局なんたら協会の会長らしい。
俺には過ぎた相手。
親父もどこから見つけてくるんだか……。
俺が帰って来たのを逃すまいと、
次の日にはお見合いがセッティングされ、親父が返事までしてしまう。
この見合い自体に不服があるわけじゃない。
見合い相手も好感が持てる。
結婚すれば、家庭的ないい嫁さんになるだろう。
俺も……、結婚すれば変われるんだろうか?
心のどこかでそう期待する俺が、強く断ることをさせなかった。
そのせいで、あれよあれよという間に、式場まで押さえてしまう親父達。
あまりのスピードに、見合い相手にまで心配されるしまつ。
「本当に……いいんですか?私で……。」
盛り上がる親父達の目を盗んで、心配そうに俺を見上げる見合い相手。
「それはこっちの台詞……。いいの?俺で?」
「私は……ずっと憧れてましたから。」
「え?俺に……?」
「はい。隣町の櫻井さんは高校時代、有名人でした。」
彼女が笑う。
「カッコいいって、ウチの高校でも話題になってました。」
「全然知らなかった……。」
「そうですよね?女に興味はないって感じでしたもん。」
彼女の笑い声がコロコロ転がる。
嫌な笑い方じゃない。
高校は男子校。
女っ気はまるでなかったし、興味もなかった。
「でも、卒業してから大分経つよ?」
彼女が、思い出すように天井の隅を見上げる。
「私の……初恋だったんです。淡い思いが、ずっと心のどこかにあったみたい。」
懐かしそうに目を細め、クスッと笑う彼女。
きっと、結婚しても上手くやっていける。
そう思えるくらいには、穏やかで優しい笑顔。
初恋……。
俺にとっても、忘れたくても忘れられない。
いや、忘れたいなんて思っちゃいない……。
断らないのが返事と取られ、結婚が正式に決まると、戸惑いながらも会社に辞表を書いた。
いつまでも逃げてはいられない。
いや……俺自身、きっかけを待っていたのかもしれない。
田舎に帰る、……あの、小屋に行くきっかけ……。