「わしは1000年生きた。」
男の指が櫻井の頬を撫でる。
「もう、十分だ。わしはもう、精気は吸わぬ。」
「なぜ?私の為と思うなら……。」
櫻井が男を見つめると、男はゆっくり首を振る。
「そうではない。本当にもう十分なのだ。
なに、お前よりは長く生きるから安心しろ。」
「智……。」
男は赤子の頬を撫でる。
「わしは強い。」
「……はい。誰よりも強く気高い。」
櫻井は男の手を見つめる。
細く長い指が、赤子の頬に当たる産着を避ける。
「わしは自分の終わりを自分で決めねばならん。」
「それは、どういう意味……?」
「わしの血族を作らなければ、わしは死ねんということだ。」
櫻井はじっと男を見つめる。
「子を作れば、わしの寿命は尽きる。
精気も吸わなくなる。一石二鳥だ。」
「なぜ……、なぜ終わりを決めたのです?
何度も言いますが、私の為なら……。」
男は櫻井の 唇 に 唇 を押し当てる。
柔らかい感触が、櫻井の口の中に入り込んでくる。
櫻井も、赤子を気にしながら、舌 を 絡 め、男の 唇 を受け入れる。
男は 唇 を離し、櫻井の瞳を見つめる。
「お前の為ではない。わしの為だ。
わしがここで!お前と!終わりにしようと決めたのだ。」
「そんな……それでは……。」
櫻井は言葉を飲み込む。
男を否定しようとしても、内から込み上げる想いの大きさに、
自分でもどうすることもできない。
「なんだ、そんなに嬉しいのか?」
男がにやりと笑う。
「え?」
赤子の頬に、ポタリと櫻井の涙が落ちる。
「嬉しいのだろう?」
男がからかうように言う。
「……どうやら……嬉しい……みたいですな。
私としたことが、嬉しくて……自分でも、どうすればいいのかわからないくらい、
混乱しているようです……。」
「ふふふ。愛い(うい)奴じゃ」
男が櫻井の目元を拭う。
男の手が櫻井の後頭部を掴み、もう一度 唇 を合わせる。
「本当に……いいのですか?」
男は櫻井の額に額を合わせる。
「ああ、わしが決めたことだ。」
「でも……。」
「もう引き返せん。」
「それはそうでしょうけど……。」
「グダグダ言うな。お前が掛けた術だろう?」
「私が掛けたのは……。」
男が櫻井の唇に人差し指を当てる。
「わしの名を呼ぶのは一生お前だけだ。
お前に呼ばれれば、いつ、いかなる時でもわしはお前のところにやって来る。
それがお前の術だ。」
櫻井はクスッと笑って、小さくうなずく。
しかし、すぐに眉間に皺を寄せる。
「どうした?お前が迷惑だと言ってももう遅いぞ?」
「いえ……そうではありません。
そうではなくて……雅紀さんのことが……。」
男は、ああと大きくうなずく。
「案ずるな。」
男の手が、赤子の頭を撫でる。
「わしとお前の子だ。さぞかし強い子に育つであろうな?」
櫻井も、そうかと赤子を見つめる。
「この子は……どんな子に育つのでしょうね?」
「お前に似て、頭のいい、優しい子に育つだろう。」
櫻井がクスッと笑う。
「あなたに似て、強く美しい子に育つでしょうな。」
二人が顔を見合わせ、笑い合っていると、大声で叫びながら、雅紀が駆け込んでくる。
「翔さ~ん!貰ってきました!」
雅紀がお椀に貰って来た乳を、男が小指でちょいちょいと突っつく。
その指を赤子の唇に当てると、赤子がチュウチュウと吸い付いてくる。
「いい吸い付きだ。こいつはきっと、お前に似て口吸いも上手いな?」
雅紀が顔を赤らめ、櫻井がメッと睨みを利かす。
「狐殿!」
男が声を上げて笑う。
雅紀も恥ずかしそうに二人を交互に見る。
櫻井は、愛おしそうに二人を見、赤子を見る。
「そうそう、まだ言ってませんでしたね。」
櫻井は改まって男を見つめる。
「おかえりなさい。」
雅紀も続けて言う。
「おかえりなさい。」
男が答える。
「ただいま……帰ったぞ。」
赤子が、ふにゃぁと声を上げる。
「わぁっ、もう、わかるみたいですね?」
雅紀が赤子を見つめると、櫻井は雅紀の頭を撫でる。
「この子を助けて、この子に助けられて、二人で助け合って生きて行くのですよ。」
「翔さん……?」
櫻井は窓から外を見上げる。
西に輝く星は今は見えない。
けれど、きっと、いつにも増して輝いているに違いない。
妖と人の間の子。
赤子にとって、それは幸せなことばかりではないかもしれない。
母親のことも、成長した時に、本当のことを説明しよう。
それでも……。
「翔さん!」
櫻井が考え込んでいると、雅紀が櫻井を呼ぶ。
「ああ、すまないね。」
雅紀が頬を膨らませて櫻井を見上げる。
「ちゃんと考えないと!」
「何をだ?」
男が首を傾げて雅紀を見る。
「赤ちゃんの名前!」
櫻井と男は顔を見合わせて笑う。
「そうでしたね。さて、どんな名にしましょうか……。」
三人の声が響き渡る中、お腹がいっぱいになった赤子はスヤスヤと寝息を立てる。
それに気づいた男が、腹の座った男になりそうだと、クスッと笑った。
「はる~!薬草取りに行くよ?」
「まって、まちゃき兄ちゃ!」
雅紀が立ち止まると、はると呼ばれた男の子が、てとてとと走って来る。
「翔さんと狐さんはちょっと妖退治に出掛けるから、
今日から少しの間いないけど、寂しい?」
はるはブンブンと首を振る。
「だいじょぶ!兄ちゃがいるから!」
はるは雅紀の手を掴み、雅紀を見上げる。
「うん、私もはるがいるから寂しくないよ。」
はるが嬉しそうにふにゃりと笑い、雅紀もにっこり笑う。
「さ、行こうか?」
「あい!」
雅紀ははるに歩幅を合わせ、ゆっくり山に入って行く。
「これ!このあっぱ(葉っぱ)!」
「よくわかったね?帝の薬に使うやつ。」
「あい!」
「はるは賢い。」
雅紀が頭を撫でると、はるが上を向く。
はるの目に、どこまでも澄み渡る青空が映る。
「あ。」
はるが空の一点を見つめて立ち止まる。
「どうしました?」
「あちょこ!」
はるが空を指さす。
「あそこ?」
雅紀もその指さす方向を見つめる。
「ほち(星)!」
「どこに見えるの?私には見えないけど……。」
雅紀がどんなに目を凝らしてみても、昼間の青空で星が見えるわけもない。
「ひかってりゅ。」
西の方角を指さしたまま、じっと見つめるはるを見て、雅紀が笑う。
「見えるんですね。はるには、二人の星が。」
雅紀も空を見上げる。
「二人が仲良く妖退治したのかな?」
雅紀が笑ってそう言っても、はるはそこを動こうとしない。
「これは……もしかして、ケンカした?」
首を傾げ、はるが歩き出すのを待つが、なかなか歩きだそうとしない。
「はる!暗くなる前に戻らないと!
こんなところでも、妖はいるからね?」
はるが、ふっと雅紀を見上げる。
「あい!」
笑顔で応え、並んで歩き出す。
「何を考えてるかわからないところは翔さんに似たのかな?」
はるの手を強く握ると、雅紀を見上げる。
大きな瞳に、通った鼻筋は大人びて、4歳にはとても見えない。
その秘めたる能力の高さが、嫌でも伝わってくる。
大きくなったら、どれほどのものになるのか。
雅紀は並んで歩き続ける。
1000年を生きる白狐と、当代随一と噂される陰陽師を親に持つ幼子。
字名を清明、幼名をはると言う。
終