「大野さん……。」
甘くおいらを呼ぶ櫻井君の声。
目の前の瞳は、真っ直ぐにおいらを見つめる。
「キス……してもいいですか?」
「えっ……?」
おいらはこの瞳に見つめられると動けなくなる。
何も考えられず、何もできなくなる。
それくらい、強い視線。
「な、なんでそんなこと聞く……。」
「だって……まだ返事、もらってないから……。」
櫻井君の手がおいらの肩にかかる。
「ダ、ダメだよ。大人をからかっちゃ。」
「からかってなんかいません。僕は真剣です。
わかりませんか?」
櫻井君の瞳には揺らぎがなくて、おいらは顔を背けることもできなくて……。
わかってる。
櫻井君が真剣だってこと。
真面目で一生懸命でキラキラでピチピチの櫻井君。
そんな櫻井君が……おいらを好きだと勘違いしてるってことも!
「さ、櫻井君!」
「なんですか?」
後3センチのところでおいらを見続ける櫻井君は、慌てるおいらとは対照的におだやかで。
「ま、まずはちょっと話そうか。」
「いいですよ。どうぞ。」
「こ、このまま!?」
「どうぞ。」
後3センチの寸止めで、キラッキラの笑顔が、おいらの視界一杯に広がる。
眩しくて……でも、目を離すこともできなくて……。
仕方なく、おいらはそのまま話し出す。
「さ、櫻井君は、勘違いしてるんだと思うんだ。」
「勘違い?」
少し顔が傾く。
「そう……仕事のことを考えてる内に、おいらのことを考えて……。
好きなんじゃないかと錯覚する……。
よくあることだよ。」
よくあることか!?
聞いたことないぞ!
「錯覚……ですか。」
「そうだ。錯覚だ。本当はそんな気持ちじゃないのに、
仕事の高揚感で、恋愛のような気がしてるだけなんだ。
冷静に考えてみろ。
37のおっさんのおいらに、櫻井君を引き付ける魅力なんてあるわけない。
あるのは、取引先の担当課長……その肩書だけだ。」
「なるほど……。」
「どう攻略して、次の仕事に繋げるか……。
そう考えることは、恋愛と似ていないこともない……。」
に、似てるか?
恋愛ってもっと、ドキドキしたり、キュンとしたりするもんじゃないのか!?
あ……仕事もドキッとするか……。
「仕事と恋愛の近似性については、置いておくとして……。
僕が、大野さんに感じているのは明らかに恋愛です。」
「なぜそう言いきれる?」
目の前で動く唇は、艶があって、柔らかそうで、
それが大きな瞳と一緒になっておいらを釘付けにする。
「恋愛以外で、キスしたくなったりしますか?」
「し、しないとも言い切れないだろ?」
「例えば?」
「例えば……、あんまりお腹が空きすぎると、
食べ物じゃなくても美味しそうな気がしてくるじゃないか……。
ほら、空に浮かぶ雲を見て、美味しそうなハンバーグに見えたり……。」
「雲ですか……。」
「そうだ。河原に落ちてる石ころがおにぎりに見えたり……。」
櫻井君がクスッと笑う。
「可愛い幼年期だったんですね。大野さん。」
ち、違う!そうじゃない!
「でも、目の前の美味しそうなイチゴは、間違いなく美味しいと思いますよ?」
櫻井君の唇が若干近づく。
「ま、待て!よぉっく考えろ。
目の前のイチゴはもう賞味期限切れだ。腐ってるかもしれないぞ。」
「腐ってるなんて、願ったり叶ったり!」
なぜか櫻井君が嬉しそうに笑う。
「腐る寸前が、なんでも一番おいしいんですよ。
熟して……甘く香る……。」
櫻井君の 唇 が近づいてくる。
う、動けない……。
避けることも、押し返すこともできなくて……。
されるままに、唇 が重なる。
柔らかい 唇 の感触。
次いで、温かさが伝わって……。
ただ、重ねただけの 唇 の気持ち良さ。
目の前の櫻井君は、目を閉じることもなく、おいらを見つめ、
おいらも見つめ返す。
イチゴは……本当に甘く、芳香な香りを放つ。
もっと味わいたい……。
もっと……。
わずかに 唇 を動かし、櫻井君の 唇 の柔らかさを楽しむ。
柔らかく熱い若い実は、齧れば今まで味わったことのない味がするはず……。
唇 をまたずらし、その間に 舌 を押し込む。
櫻井君の瞳が大きくなる。
大きくなって、ふんわりと色を湛える。
絡 まり合う 舌 は、果実の汁を溢れさせ、クチュッといやらしい音をさせる。
まだ青臭さの残る実は、想像以上に繊細に動き、ひたむきに追いかけてくる。
ああ……。
久しぶりだからか?
それとも男同士だから?
歳の差のせい?
……何のせいにしろ……。
その果実が魅惑的だということに変わりはなく……。
喰らい尽くしたい欲望を、必死で抑え込むおいら。
櫻井君は気付いていたのだろうか。
どんなに理由を並べ立てようと、どんなに言い訳しようと……。
櫻井君から目が離せないおいら。
会いたいと思うおいら。
イチゴが食べたかったのは……おいらの方だ。
大人の常識を盾に身を守っていたのは、
一度味わったら、離れられないことがわかっていたからだ。
この魅力的なイチゴを……。
おいらの手を、櫻井君の背中に回す。
22歳の若造に。
37のおっさんのおいらが溺れる図なんて、どう考えても滑稽で。
そんな滑稽な図になっても……。
あんまりイチゴが甘すぎて、おいらの大人の常識が……。
「おお……の…さん……。」
櫻井君の瞳の中に吸い込まれていった。