「遅いので心配しておりました。」
「すまない。野暮用でな……。」
男は悪ぶるでもなく部屋を見渡す。
「そこはそれ……詮索なんて致しません。」
堺屋がいやらしく笑い、上座を示す。
「ささ、こちらに……。」
男は一瞬、上座を嫌がる素振りを見せるが、堺屋が首を振ると、
仕方なさそうに、先ほどまで堺屋が座っていた場所に腰を下ろす。
すかさず潤がお銚子を手に男の隣に陣取る。
女はどうすればいいのか、不安そうに潤と堺屋を見比べる。
潤は何を思ったか、男の逆側の席を視線で示す。
女は困ったように眉を下げ、そのまま中腰になって男の隣に移動する。
堺屋はそれを見て、満足そうに男の前に進み出る。
「今日はゆっくりしてくださいませ。こやつはなかなかの芸達者でございます。
後ほど舞など舞わせましょう。」
「いや……私は……。」
男が眉間に皺を寄せる。
「たまにはよいではありませんか。……これ。」
潤は堺屋の合図と共に、男にお猪口を持たせると、お銚子を当てる。
「老中様、潤吉にございます。」
わずかに会釈し、にこりと笑う。
反対側の女も困った様子のまま、軽く頭を下げ、初めて名を名乗る。
「……智…千代……でございます。」
さとちよ……。
やはり辰巳芸子ではなさそうな……。
「二人共、可愛い名だな。」
男は交互に隣を見て、優し気に笑う。
潤は智千代よりもまずは老中だと、男の顔を上目遣いで見定める。
「東山様、今日の二人はなかなかの上玉。
楽しい時間を過ごせましょうぞ。」
堺屋がにやにや笑うと、それとは反対に東山の顔は曇って行く。
「私に芸子は必要ないと言わなかったか?」
「そうはおっしゃいますが、酒の席に女子(おなご)なしと言うわけにも……。
ご心配には及びません。辰巳の女は口が堅いと聞いております。
なかでも特に口の堅い女を用意させました。
思う存分楽しんでくださいませ。」
堺屋がうなずくと、それを合図に潤はお銚子を上げ、酒を催促する。
東山は潤とお猪口を交互に見、ぐいっと一気に飲み干す。
「あれ、いい飲みっぷり。ではもう一杯……。」
潤が酒を注ぐと、東山は潤と智千代を見比べ、二人にも酒を飲めと言う。
「……お前たちも飲むといい。どれ……。」
潤からお銚子を奪うと、智千代にお猪口を持たせる。
「あ、おいらは……。」
「……飲めないのか?飲めないのなら飲まなくてもいいが……。」
東山が智千代の顔を覗き込む。
近くに寄られるのを嫌がるように、智千代はお猪口を差し出す。
「では、少しにしておくか?」
東山はお猪口に半分ほど酒を注ぐ。
「ありがとう……。」
智千代がにこっと笑う。
この笑顔、どこかで見たことが……。
潤は頭を巡らすが、どこで会ったかわからない。
それよりも、智千代に興味を持った風に、じっと見つめる東山が気にかかる。
東山は体の向きを半分、智千代に向けると、可哀想にと言うように智千代を見つめている。
「お前は元々、こんな仕事をする身分ではないだろう?」
確かに……。
この女に、町娘の匂いはしない。
小奇麗にしているし、田舎者にも見えないが……。
「飲めない酒を飲まなきゃならない、嫌な客でも相手しなきゃならない。
辛くはないのか?」
東山が優しい声で聞く。
智千代も考えるようにして、穏やかに答える。
「お仕事は……仕事だから。
どんな仕事でも、必要だからある。
必要としてくれる人がいるから……。
必要とされれば、やる気になるし、励みになる。
おいら、自分の仕事、好きだよ。
生意気だけど……プライドもある……。」
ぷらいど……?
どこの言葉だ?
西の言葉か?蝦夷の言葉か?はたまた海を渡った先の言葉か?
潤が首を傾げると、東山も一緒になって首を傾げる。
「ぷらい…ど?」
智千代はしまったという顔をしたかと思うと、口を尖らせ、考え込む。
二人は黙って智千代の言葉を待つ。
この、素性のわからぬ智千代に、他の者にはない何かを感じ、
潤も東山もその力の正体を智千代から探ろうと目を凝らす。
「誇り!そう、誇りを持ってやってるの。」
突然、口を開いた智千代から零れた言葉。
誇り……。
自分も誇りを持ってやっている。
役者の仕事……。
踊り……。
全ては舞台の為。
自分の……、舞台は自分の誇り。
潤は智千代の横顔をそっと見つめる。
同じように見つめていた東山が、小さくつぶやく。
「誇りか……。お前は仕事に誇りを持ってるんだな?」
智千代も小さく、でも力強く頷いて、にこりと笑う。
その顔を見て、複雑そうに眉をしかめた東山が酒を煽る。
潤も、お猪口をそっと口に添え、堺屋と東山に視線を移す。
堺屋は薄ら笑いを浮かべたまま、黙って酒を煽っている。
自分の推測が正しいなら、岡場所を無くし、歌舞伎や春画を無くそうとしているのは東山だ。
だが、会ってみれば、東山の様子は堺屋とは違う。
堺屋は明らかに金儲けを企んでいる。
できうるなら、自分で吉原や深川を牛耳れないかと、それくらい考えてもおかしくない男だ。
だが、東山は純粋に江戸町民の為を思っているように見える。
いや、まだわからない。
東山が何を考えているのか、それがわかれば……。
潤は、お猪口の中を空けると、お銚子を持って、にこりと笑った。