翔が帰宅したのは日付が変わった頃だった。
ゆっくりとドアを開ける。
廊下に明かりは点いていない。
大丈夫。まだ智君は帰ってない。
そう思い、安堵の息を漏らす。
深夜のマンションだ。
ドアをゆっくりと締め、できるだけ音を殺す。
後ろ手でロックを掛け、靴を揃えてリビングに向かう。
入口脇のスイッチで明かりを点け、ネクタイを緩めながら冷蔵庫を開けると、
中には、ミネラルウォーターとビール、数種のお惣菜。
惣菜の一つを取り出し、賞味期限を確かめる。
「ん……まだいけるな。」
その惣菜とビールを一缶、洗い籠の箸を掴み、テレビ前のソファーへ急ぐ。
特に急ぐ必要があるわけではない。
ただ、いつ現れるともわからない恋人の登場に備える為、
できることは早めに済ませたいだけだ。
「…………翔君……。」
翔がソファーに腰かけた途端、空耳かと思うほど微かに聞こえる愛しい人の声。
「…………智……君……?」
翔はキョロキョロと辺りを見回す。
リビング、ダイニング、キッチン……。
目に入る場所に智の姿は見えない。
気のせいかと、持ってきたビールのプルタブを引く。
プシュッと炭酸の音がして、そのまま、喉の奥へ流し込む。
「…………翔君……。」
また聞こえる声。
翔は、声は聞こえど姿は見えぬ恋人の微かな自己主張に、
もう一度ゆっくり部屋の中を見渡す。
リビングの、少なくとも半分、テレビまでの間に智はいない。
テレビから先の半分、智のアトリエや翔の書斎に続く方へ目を向ける。
一瞬、ギクッとする。
どんよりと重たい空気を纏って、愛しい恋人は膝を抱えてソファーの影に隠れている。
この重たい空気はどうしたわけか……。
「さ、智君……?」
気付かれた智は、ゆっくりと顔を上げる。
「なんて顔してるの……。」
智は少し首を傾げて翔を見上げる。
「……どんな顔してる……?」
翔はソファーから立ち上がると、智の前に屈み、智の頬に手を当てる。
引きつって硬直した顔。
何時間もそうしていたようで、智はすぐに立ち上がれない。
「智君……何があったの?」
「何が……?」
智の硬直した顔が歪む。
どんよりした空気が、メラッと揺れるのを感じ、翔はピクリと体を揺らす。
「さ、智君……。」
「おいらが何で落ち込んでるか、わかんねぇの?」
いつもこんなしゃべり方をする智ではない。
智は何かに怒っている。
怒って、そんな自分に落ち込んでいる。
そこまで理解し、翔はここ数日の自分の行動を振り返る。
毎日仕事しかしていない。
飲みに行った記憶もないし、恋人を些末に扱った覚えもない。
「ごめん智君……。俺、全然わかんないや。」
翔が素直にそう言うと、智はさらにムッとして、ヨロヨロと立ち上がる。
ずっと同じ体勢でいたせいで、智の足が痺れて動きがぎこちない。
「さ、智君っ!」
翔は部屋に籠ろうとする智の腕を掴む。
「待って。理由を教えて。俺が原因なんでしょ?」
翔は真っ直ぐ智を見つめる。
智は腕を振って翔の手を払うと、眉をピクッと上げて翔を睨みつける。
「なんでわかんねぇんだよ!」
以外なほどに智は怒っている。
近年、智がこれほど怒ったのを翔は見たことがない。
元来、穏やかな人柄の智がこうまで怒るとは、よっぽど翔がヘマをしたに違いない。
「ごめん、本当にごめん。俺、何しちゃった?」
すまなそうに眉尻を下げる翔に、智の怒りがグラつく。
「しょ、翔君が悪いわけじゃねぇよ。わかってるよ!」
そう言い捨て、アトリエに入ろうとする智の肩を、翔はもう一度掴み、振り向かせる。
「智君……本当にごめん。
でも、俺の愛しい人が、何に怒ってるのかわからないままでなんていられないよ。
何に怒ってるの?」
翔は静かにそう問いかけ、困ったように智を見つめる。
智も真っ直ぐ翔を見返し、一瞬、逡巡すると、ブツブツとつぶやくように答える。
「おいらの……我が儘だよ。……翔君は忘れていいから……。」
智は振り返って、部屋のノブに手を掛ける。
翔は掴んだ肩をグイッと引き寄せ、智の両肩に両手を掛ける。
「そんなわけにいかないでしょ?教えて……。」
ゆっくりと、落ち着いたトーンで話し、
先ほどとは違い、真正面から真っ直ぐに智を見つめる。
翔は知っている。
智がこのトーンの翔の声を無視できないこと、
翔の正面からの顔をとても気に入っていること……。
効果は多少あったようで、智はうつむき加減で口を尖らせながらも、
ポツリポツリと口を開く。
「だって……翔君さ……。」
「……俺が……何?」
智はチラッと翔を見上げる。
「…………だと……。」
「ん?」
より小さくなる声に、翔が顔を近づける。
近づいた顔にドキリとし、智は少しだけ声を大きくする。
「……岡田と……。」
「岡田君?」
「ん……。」
智は唸るようにそう言って、顔を背ける。
翔は脳内のアルバムをペラペラと捲っていく。
翔と岡田が一緒になった仕事はここ数日いくつかある。
その中のいくつかに、赤いランプが点滅する。
確かに、最近スキンシップ多いか……。
「……何?もしかして……妬いてる?」
翔がそう言うと、智の頬がプゥッと膨れる。