中道論考:動的な平衡としての「球体の中心」


1. 定義の再構築:直線から多次元へ

中道とは、単なる左右の「中間地点」や「妥協点」ではない。それは、**左右(思想)・上下(階層)・前後(時間軸:過去と未来)という三つの軸が交差する、全方位的なバランスが極まった「動的な平衡点」**である。

• 球体のイメージ: 縁起(あらゆる関係性)を三次元的な球体として捉えたとき、中道はその「ど真ん中」に位置する。

• 中心の性質: その中心点は、数式上は「ゼロ(空)」に近い特異点であり、実体として固定できるものではない。常に揺れ動く現実の中で、一瞬一瞬見出し続ける「プロセス」そのものが中道である。


2. 言葉の定義と「士道」の役割

「中道」を語る上で、言葉の定義を厳格にすることは不可欠である。定義なき中道は、単なる日和見や空疎なスローガン(例:「中道改革」)に陥り、自滅する。

• 矜持としての定義: 「名を汚さない」という個人的な背景から導き出される誠実さは、言葉を軽く扱わないための防波堤となる。

• 士道の継承: 日本における中道の実践形態は「士道(武士道)」に求められる。それは、義と慈悲、文と武といった相反する価値観を、自らの「生き様」という一点で統合する試みであった。


3. 保守的態度:懐疑という名の哲学

人間がこの完璧な「ど真ん中」を維持し続けるのは極めて困難である。そこで、現実的な作法として立ち現れるのが**「保守的態度」**である。

• 懐疑の必要性: 明治維新以来、日本の「球体」は西洋的な直線論理によって歪められてきた。この歪みを自覚し、安易な流行や「改革」の熱狂に対して**懐疑的(哲学的)**であり続けることが、中道へ踏みとどまるための唯一の手段である。

• 日本語の防衛: 日本語という、主語を介さず「間(縁起)」を記述できる特殊な言語を死守することは、多層的な思考(球体の維持)を可能にする最後の砦である。施光恒氏が説くように、安易な英語化は思考の解体(愚民化)に直結する。


4. 終着点としての「仁」

中道の探求は、冷徹な論理だけで終わってはならない。伊藤仁斎が説いたように、それは**「仁(活物としての愛)」**という体温を持った実践に帰結する。

• 人間としての誠実さ: 腹を立て、迷い、己の限界に突き当たりながらも、他者との縁起の中に「仁」を見出そうと足掻くこと。その「難しさ」を認めつつ歩みを止めない姿勢こそが、歪んだ世の中において「球体の中心」を志向する者の、最も高貴な態度である。


AIと、中道について議論は、仏教的視点で考えると中々難しい。

円の中心ではなく、休憩の中心が中道では無いかと現段階での答えかなぁ🤔

とは言え、中心を求めた時に、限りなく0が続くが最後に1を付けてしまうと完全な中心では無くなる訳で〜

また思考の迷子になってる🤣