てんざえもんの哀しき告白 -16ページ目
儒教の精神というものは、ある意味、非常に人間的である。つまり集団の中における自分の位置というものを考えさせる作用があるのである。自助は当然であるが公助をより重んじる思想である。であるから、よほどの義がない限り争い紛争のたぐいはしないのである。さて、自助を強調する自民の思想は、行き着くところ戦いの思想になる。想像してもらいたい!いまわが国の多数の国民は、東アジアにおける日本の位置を理解してないように思えてならない。もし集団的自衛権をアメリカと共に行使すればどうゆうことになるか!東アジアの中国・朝鮮半島・日本は、東アジアが生んだ儒教の思想を学び直さなければならない。
儒教は、孝忠だ。などと言ってる内は、まだ、論語よみの論語知らずである。そんなことは、儒教の文飾に過ぎない!儒教の核心をつかむよう論語を味わうべきである。



もうすぐクリスマスである。楽しみにしている人も多いことだろう。プレゼントも楽しみだが、たべものも楽しい。スーパーのお惣菜コーナーにはクリスマス料理が並んでいる。おれもチキンを買ってもらって食べたら、なんかめずらしくケンタッキーに行きたくなった。今年は家内とケンタッキーにでも食べに行きたい。そこで、チキンに合うのがCokeである。なかでも、冷えた缶コーラがなかなか相性が良い。チキン&缶コーラが今年の狙いかな。
しかし、また自民の弱いものいじめの政治がはじまると思うとがっかりである。おれは、家内のため!そして学問学術を成就していきたい。悪政だろうと!人目に付かなくとも!



梅原猛が仏教再発見ならば、おれは儒教再発見である。しょせん仏教は自分のことばかりなのに対し儒教は公共性を重んじる。つまり儒教は、人間誰でも持っている良心を育み、それを自分より気の毒な人たちの救済へ向けるのである。儒教における儒学者の思いは、領土より国民であり、利益の独占ではなく、利益の分配である。それは、さよく的あると言える。儒教の孝などは文飾に過ぎない。思いやりが核心なのである。


おれは、社民も共産も支持しない!さよくである。よって、維新や自民などの右翼政党は当然支持しない!
右翼に国をわたせば、逆に外交・安全保障に重大な災いを及ぼすことは明らかだからである。それは明治以降のわが国の歴史を見れば一目瞭然である。古の古典を見ればよくわかると思うが、わが国の先祖が、朝鮮半島や中国の人たちに世話になったことを共通の歴史認識として持つべきである。


おれは、ひらめいた!何かを信仰するのは、何か願い事を叶えたいからだろ?だったら、祈る対象に図々しくなれ と。媚び諂うことなく信仰すれば己を失うことなく、怯えも不安もない。図々しく信仰することは、ある意味カルト的宗教にはまらない予防とも言える。
神でも仏でもいい図々しく信仰してみることは知恵である。それは勇気をつける手段でもある。