3連休
朝から園児が、色とりどりの帽子をかぶり、
を首からさげて、お父さんやお母さんと楽しげに
手をつないで登園する姿を、沢山見かけました。
運動会日和ですね。
お天気大丈夫かな?
今日はお仕事
スタッフMです。
(^-^)/
さて、前回のつづきを。
「てんやのオートフライヤー」の誕生秘話を続けましょう。
の創業に携わっていたてんやの会長、てんやおじさんのモデルとも言われる岩下は、
のシステムのすばらしさには魅力を感じつつも、
ハンバーガーという商品には疑問を持っていました。
「もっと日本人になじみのある食べ物で、のシステム、仕組みをいかせないだろうか?」と。
退社後、とある事業を経て、割烹へと転職をした岩下は、同じ外食産業でも
とは正反対の商売を見ることとなりました。
「米と野菜と魚を中心とした食で暮らしてきた日本人にとって、和食は民族食だ!奥が深い」と新たな世界に目を輝かした模様。
ただし当時でもお一人様あたり1万円を超えるような高級割烹で、60~70人もいる板前職人達を見て「板前の世界は厳しいだけあって、職人の人件費は高いし、和食の材料費も高い。これほど管理がしにくい世界はないな」という思いもあったようです。
「ハンバーガーなら材料は、バンズ(パン)とパティ(肉)とケチャップで、1個いくらかかっていくらで売っていくら儲かる・・・と決まっているけれど、和食(割烹)では、魚1尾を仕入れても、色々な調理法や提供方法があって、当日は刺身で提供して、翌日は煮たり焼いたりして提供して、それでも残れば賄いになって・・・と1尾の魚の儲けが決まっていない。非常にコントロールが難しい」
「板前を育てるのには時間がかかるし、特殊な世界だ。職人技に頼っている限り合理的な和食のチェーン展開は難しい。」などと感じたことが、のちのち「で天丼を!」の「天丼てんや」誕生のヒントになっていくのです。
つづきはまた・・・。