今年の第168回直木賞受賞作

 

「しろがねの葉」を読みました

 

作家の千早 茜氏は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると

 

1979年に北海道江別市に生まれて

 

小学生の4年間は、お父さんの仕事の関係でアフリカで過ごしたとのこと

 

 

 

 

 

この作品素晴らしいところは

 

見事に、仏陀が生涯をかけて問い続けた

 

人間が決して逃れられない「四苦八苦」

 

のすべてを織り交ぜて描き切っているところであろう

 

愛別離苦(あいべつりく)→愛する人と別れる苦しみ。
怨憎会苦(おんぞうえく)→怨み、憎む人と出会う苦しみ。
求不得苦(ぐふとっく)→求めるものが手に入らない苦しみ。
五陰盛苦(ごおんじょうく)→人間の心身から生まれる苦しみ。

 

 

先日4月24日は「縁起のなかで」を番組名とした

(Eテレ毎週日曜 午前5時の1時間番組「こころの時代」)

 

京都・東山山麓にある法然院が舞台のドキュメント番組を視た

 

法然院では、東山の豊かな森を子供たちに開放し、

 

生命の繋がりを感じる機会を提供してきた様子を観られた

 

番組の中で、法然院貫主の梶田真章さんが説いた

 

「自然とは生き物を支える仕組み」

 

のことばが響いた

 

梶田真章さんのことをネットで検索すると

 

「私が嫌いな言葉は「自然と人間の共生」です」

 

に出会った

 

確かに

 

生命が支え合う仕組みの中の生かさせていただいている人間なのに

 

人間を自然の対等にするおろかさを露呈している言葉である

 

生命の連鎖は仏教の「縁起」の世界にも通じると梶田真章さんは番組で説いている

 

 

 

一方、人間は、社会資本主義の侵攻とともに

 

「社会」を創り上げてきた

 

そんな中で

 

自然生態学という研究分野があるように

 

20世紀代最大の哲人ドラッカーは、

 

一番呼ばれたくない呼称を経営学者・経済学者として

 

社会生態学者であると自称した

 

ドラッカーは、著書の中で「社会とは・・」のいくつかの定義を行っている

 

社会とは人間環境の「生態」である。  ―― 『経済人の終わり』 (1939)

 

 

 

 自由な社会は、人間というものが、基本的に完全ならざる存在、完全たりえぬ存在であって、しかも完全ならざるがゆえに責任を伴う存在であるとの認識によってはじめて可能となる。 ―― 『産業人の未来』(1942)

 

 

 社会とは人間の実存の表層であり外皮である。―― 『断絶の時代』(1969)

 

 

 

「なぜ生きるのか?」の問いは、生命が存在する限り答えの出ない永遠の問いで

 

あり続けるだろうが

 

「どう生きるか?」の問いに向き合うことは

 

一人ひとりが「自然・社会生態学者」として

 

「問い」と「答え」を一瞬一瞬繰り返しながら

 

生きなければならないという

 

生命をしての宿命を担っているんだというメッセージが

 

シンフォニーとなって

 

「しらかばの葉」

 

から響いてきた