文先生は愛の勝利者であるという話をしましたが、
どのくらいまで許し、愛さなければいけないのでしょうか?
マタイ5章39節には
右のほうを打たれたなら、左のほうを出しなさい・・・
書かれていますが、理由もなくたたかれるのであれば、
打ち返さなければならないし、
下着を取ろうとするものには上着をも与えなさい・・・
とも書かれていますが、
いまどき日本は福祉が行き届いていますので、
そこまでの人はいませんし、
家のない人たちも自分たちで一生懸命生きています。
あくまでも自分の今現在できるすべてを
投入して愛しなさいということであって、
物質的なことだけの意味ではないと思うのです。
許すということに関しても、
十字架上でさえも
刺し貫くものを許されたイエス様です。
現在の罪びとをすべて許して
何とか救おうとされるのが、メシアの使命なのです。
罪びとを裁くのは神様やメシアではなく、
罪びと本人であり、自分から天から遠いところに
行かざるを得ないのです。
ただひとついうならば、
知っていながらもさらに反対するものには
それなりのリスクを伴うということです。
知らずしてイエス様を十字架にかけたものは許されても、
文先生を知っていて今も反対するものたちは、
悔い改めて生まれまわらなければなりません。