西條八十の出世作の童謡「かなりや」2011.8.27



1918年の初秋。不忍池の周りを、生後半年ほどの女児を抱いて散歩する長身の男
性がいた。
西條八十、26歳。
近くの木造アパートで翻訳の仕事をしていた。
 裕福な商家に生まれ、早稲田大学英文科在学中に「早稲田文学」に載せた詩などで
注目された。
ところが父の死で事態は急変。
支配人と兄に遺産を横領され、家業は傾いた。
跡継ぎとして母や弟妹、妻子を養うため、西條は、翻訳、株取引、天ぷら屋の経営に
も手をそめた。

「本来の使命の詩を書くことも忘れてわずかな利に憂き身をやつすようなこの男は、
棄ててしまえ、鞭打って、殺してしまえ」。

兜町通いをしていた頃、自責の声を心中に何度も聞き、たまらなく恥ずかしかった
と、西條は自伝に記している。

そこへ創刊を控えた「赤い鳥」の主宰者、鈴木三重吉が訪れた。
数ヶ月前のことだ。
「新しい童謡を書いていただきたいのです。」
詞の依頼だった。
一筋の光が差した。
期待に応えようと思索する散歩道、ふと「唄を忘れたかなりや」の節が浮かんだ。
ある教会でのクリスマス。
一つだけついていなかった天井のてっぺんの電灯を見て、ひらめいたものだった。

 西條の評伝を著した帝京大学の筒井精忠教授は、
「北原白秋や黄金期を迎えた早大文科の先輩たちの活躍を、寂しい思いで見ていた八
十は、自分がその消えている電灯のように思えたのでは」と見る。

「唄を忘れたかなりや」は、生活に追われて詩を書けない西條自身だった。


 評判と」なった詩「かなりや」で「唄を思い出」した西條は、翌19年に第一詩集
「砂金」、20年に訳詩集「白孔雀」を出版。
一躍、人気詩人となる。

西條は早稲田大学の教員として英文科や仏文科で教えながら、作詞も続けた。
童謡の「肩たたき」「お月さん」。流行歌では「東京行進曲」の大ヒットに続き「銀
座の柳」「東京音頭」など。
戦時色が濃くなるにつれ、軍歌もまじる。
「同期の桜」、「誰か故郷を想わざる」「蘇州夜曲」「若鷲の歌」・・・・。

新川さんは戦時中に西條と交わした、こんなやりとりを覚えている。
「この戦争は負けるよ」
「どうして先生は、その負ける戦争に協力するんですか」
「船がこぎ出してしまった以上、どっちの岸に着くにせよ、一生懸命一緒にこがな
きゃならないじゃないか」


戦後、西條は戦意高揚に関与した戦犯として罪に問われると取りざたされた。結局、
追求はされなかったが、早大教授は辞した。

「だれでも自分の心を慰めてくれる、励ましてくれる唄をほしがっている」と考え、
戦争で傷ついた民衆のために「青い山脈」「王将」など、明るく力強い詞を世に送り
出した。

中には反戦歌もあった。
53年に封切られた映画「ひめゆりの塔」の幻の主題歌もそう。

結局は監督の強硬な反対で使われず、出演した香川さんもその存在すら知らなかっ
た。