物事は どんな場合でも それでよかった と受け止めるとそういうほうになっていくようである。
「どっちに転んでも大丈夫」というのも同じである。
シスター渡辺和子が著書にこう書かれている。
☆「忘れかけていた大切なこと:ほほえみ一つで人生は変わる」より
曹洞宗の尼僧、青山俊董が書いた「禅のまなざし」という本の中に、
「だいじょうぶの小石」というお話があります。
仕事がら病院に出入りを許されている一人の方が、掌に入るくらいの小さな小石をもっていて、これから手術を受けようとしている人に、その小石を握らせてあげるのだそうです。その小石には、平仮名で「だいじょうぶ」と書いてあるので、それを握らせてもらった人は、
「大丈夫なんですね。手術はうまくいくのですね、ありがとう」
と喜びます。すると、その方は、
「あなたが思っている通りになる大丈夫ではなくて、どちらに転んでも大丈夫、そういう大丈夫の小石なんですよ」
とおっしゃるのだ、というお話なのです。
この話を読んで、私のこれまでの考えは足りなかったと思いました。
これまでは「手術のためにお祈りしてください」と頼まれると「はい、わかりました。きっとお治りになりますよ。大丈夫ですよ」、そういう気持ちで「大丈夫」を使っていたことが多かったと思うのです。
祈れば神が私の願い通りにしてくださる、病気を治してくださる、夫の怪我を治してくださる、子供の暴力を止めてくださる、というのではなく、どっちに転んでも大丈夫、神は悪いようにはなさらないという信頼、腹のすわった心がまえ、そういうものをもって祈ることが大切なのだと気づいたのです。
「祈りは神を変えません。祈りは私を変えます」。
私たちが祈ると神はきいてくださる。
まるで私たちの意のままになる神のように想い勝ちですが、私がどう願おうと、神はご自分の御心をお行いになるのです。
私は「欲しいもの」を願うけれど神は「要るもの」を下さるのです。
私は26年前、うつ病になりました。
50歳で脂が乗っている時、仕事が面白くて仕方がない、その時に欲しくも無い病気をいただきました。
その時、一人のカトリックのお医者さまが、
「シスター、運命は冷たいけれど、摂理はあたたかいですよ」
と慰めてくださったのです。
その当時は、その言葉の意味がわかりませんでした。
治りたい!治りたい!とだけ想い、神をうらみ、愚痴を並べ、そして暗い顔をしておりました。
私が唯一微笑むことの出来なかった時期です。
その後、運命と摂理の違い、それがようやく少しずつわかってきました。
この世の中に起こることをしようがないこと、降って湧いたような天災、人災つまり、運命として受け取るのではなく、同じ受け取るなら、摂理として神のはからいとして受け取る。
だから「大丈夫だ」ということなのです。
私の欲しかったことはその時には実現しないかもしれない、。
でもいつか神の時間に実現されるのだということ、そう信じて生きることが、すべてを摂理として受けとめるということです。
(略)
神の摂理として病気をいただいたということ、
その時はとても辛かったけれども、いまとなっては、あの時あの病気をしてよかったと思います。
病気をしたおかげで人に対して優しくなりました。
それまで人に対してきびしくて、あの人はだらしがない、なぜもうちょっと頑張らないんだ、などと思っていたのが、それを思わないで済むようになりました。
自分の弱さを知ったからです。
私が変わるために、神が摂理として病気をくださったのだと思います。
そして、そう思うことが出来るようになったことをありがたいと思います。
(略)
皆さんも、「だいじょうぶの小石」をしっかり握りしめて生きることが出来る方たちであって欲しいと思います。
時たまポロッと落としてしまってもかまいません。
どこに置いたかわからなくなって探し回ってもかまいません。
でもいつかその「だいじょうぶの小石」をもう一度見つけてください。
「どっちに転んでも大丈夫」というのも同じである。
シスター渡辺和子が著書にこう書かれている。
☆「忘れかけていた大切なこと:ほほえみ一つで人生は変わる」より
曹洞宗の尼僧、青山俊董が書いた「禅のまなざし」という本の中に、
「だいじょうぶの小石」というお話があります。
仕事がら病院に出入りを許されている一人の方が、掌に入るくらいの小さな小石をもっていて、これから手術を受けようとしている人に、その小石を握らせてあげるのだそうです。その小石には、平仮名で「だいじょうぶ」と書いてあるので、それを握らせてもらった人は、
「大丈夫なんですね。手術はうまくいくのですね、ありがとう」
と喜びます。すると、その方は、
「あなたが思っている通りになる大丈夫ではなくて、どちらに転んでも大丈夫、そういう大丈夫の小石なんですよ」
とおっしゃるのだ、というお話なのです。
この話を読んで、私のこれまでの考えは足りなかったと思いました。
これまでは「手術のためにお祈りしてください」と頼まれると「はい、わかりました。きっとお治りになりますよ。大丈夫ですよ」、そういう気持ちで「大丈夫」を使っていたことが多かったと思うのです。
祈れば神が私の願い通りにしてくださる、病気を治してくださる、夫の怪我を治してくださる、子供の暴力を止めてくださる、というのではなく、どっちに転んでも大丈夫、神は悪いようにはなさらないという信頼、腹のすわった心がまえ、そういうものをもって祈ることが大切なのだと気づいたのです。
「祈りは神を変えません。祈りは私を変えます」。
私たちが祈ると神はきいてくださる。
まるで私たちの意のままになる神のように想い勝ちですが、私がどう願おうと、神はご自分の御心をお行いになるのです。
私は「欲しいもの」を願うけれど神は「要るもの」を下さるのです。
私は26年前、うつ病になりました。
50歳で脂が乗っている時、仕事が面白くて仕方がない、その時に欲しくも無い病気をいただきました。
その時、一人のカトリックのお医者さまが、
「シスター、運命は冷たいけれど、摂理はあたたかいですよ」
と慰めてくださったのです。
その当時は、その言葉の意味がわかりませんでした。
治りたい!治りたい!とだけ想い、神をうらみ、愚痴を並べ、そして暗い顔をしておりました。
私が唯一微笑むことの出来なかった時期です。
その後、運命と摂理の違い、それがようやく少しずつわかってきました。
この世の中に起こることをしようがないこと、降って湧いたような天災、人災つまり、運命として受け取るのではなく、同じ受け取るなら、摂理として神のはからいとして受け取る。
だから「大丈夫だ」ということなのです。
私の欲しかったことはその時には実現しないかもしれない、。
でもいつか神の時間に実現されるのだということ、そう信じて生きることが、すべてを摂理として受けとめるということです。
(略)
神の摂理として病気をいただいたということ、
その時はとても辛かったけれども、いまとなっては、あの時あの病気をしてよかったと思います。
病気をしたおかげで人に対して優しくなりました。
それまで人に対してきびしくて、あの人はだらしがない、なぜもうちょっと頑張らないんだ、などと思っていたのが、それを思わないで済むようになりました。
自分の弱さを知ったからです。
私が変わるために、神が摂理として病気をくださったのだと思います。
そして、そう思うことが出来るようになったことをありがたいと思います。
(略)
皆さんも、「だいじょうぶの小石」をしっかり握りしめて生きることが出来る方たちであって欲しいと思います。
時たまポロッと落としてしまってもかまいません。
どこに置いたかわからなくなって探し回ってもかまいません。
でもいつかその「だいじょうぶの小石」をもう一度見つけてください。