『エリック・サティ 覚え書き』秋山邦晴  著
その2

【サティにおけるユーモアの弁証法】


サティのユーモアというと、誰しもすぐに思い浮かべるのが、人を食ったようなその題名であろう。『梨の形をした3つの小品』『犬のためのぶよぶよした前奏曲』『ひからびた胎児』『官僚的なソナチネ』等々。
有名な『ジムノペディ』『グノシエンヌ』『あなたが欲しい』などはかなり真っ当で、真っ当だからこそちゃんと売れた、と言えるのかもしれない。
キテレツな曲名を、単なるサティの遊び心の発露ではなく、彼の音楽観に深く根差したものとして重視するのが著者秋山邦晴氏の立場であって、だから、

─サティの作品と言語とのあいだにある(略)見えない方程式のようなもの。それを解くことが、サティの音楽の謎を解明するひとつの重要な手がかりになるのではないか。

と提言する。ただ、サティの音楽に果たして謎を求めるのが正しいのかは、疑問ではあるが、、、

著者の秋山邦晴氏は、サティの楽譜につけられた指示記号を取り上げる。そこに書き込まれた「頭を開くこと」「問いかけて」「思考の先端から」「きみ自身を頼みにして」「注意深くあなた自身に助言して」などといったサティ自身の言葉は、指示記号というより、演奏者の曲へと向かいあう姿勢を示すものだ、と秋山氏は指摘する。秋山氏によれば、
─サティ自身のことばが示すように、慣習にとらわれない新鮮な音へ向かいあう態度への記号なのだ。
ということになる。
─したがって、ここでは従来の表情記号といった要素はほとんど消去され、ことばは音との関係のうえでしばしば反意味(アンチ・サンス)のかたちをとりはじめている。

─音楽用語はながいあいだのわれわれの習慣によるひとつの結果だ。逆にそのことが人間と音とを束縛するものとして働きかけることがある。サティは突如としてその慣行のコミュニケーションを断ち切る。梯子をとりはずされて、ひとびとは自分の足をなんとか大地(音楽)につけようと必死にもがく。その自力の行為によって、はじめてひとびとは音楽を自発的にみつけることになる。
サティはこの梯子の取り外し作業のために言語というものを利用する。