『ローマの休日』

その2


前回のつづき。

観客心理の側からこの作品を論ずるなら、
アンがやんごとない王女様であることを明かされている観客は、はじめのうちは、そうとは知らない新聞記者ジョーに対して上位からの目線で物語の進行を追ってゆくことになるが、やがてジョーが王女の正体を知り、特ダネを得るために彼女と付き合うようになってからは、その事を知らないアンに対して優越意識を持つようになる。
二人が別離を決めた翌日が王女の記者会見の場面でありクライマックスである。並みいる記者の中にジョー(グレゴリー・ペック)の姿を認めたとき、王女アンは事態を一瞬にして了解する。アンは束の間疑念にかられたようだが、この新聞記者を信じきっているようだ。このあたりの微妙な心理描写も巧みだ。そこで観客もほっとする。最初はジョーが特ダネ目的で王女と付き合っていたことを知っているからだ。
アンは自分の想いを、記者会見という公的な場所において、二人だけにわかる台詞によって伝える。その台詞が公的でありかつ私的な言葉でもある、というのが味噌である。公的発言であるとともに、それはジョー個人に向けられたものという二重の意味になっているあたりが如何にも洒落ている。
映画の観客は、二人の短い間の楽しかった出来事の数々を、また二人の気持ちもよく知っている(知らされている)。それを知っているのはアンとジョーと、あとはせいぜいジョーの友人であるカメラマンくらいのものだ(それでも全ては知らない)。ここにおいて、観客は記者会見に居合わせた王女の側近やら記者連中の知らない事実を知っていることで、彼らより高い視点を獲得することになる。別の言葉で表すなら、アンやジョー(カメラマンを含めてもいいが)と秘密を共有し、共犯関係が成立している。こうした構造は映画や演劇では稀ではないけれども、クライマックスにおける二人の会話のやりとりがすこぶる公的な場でなされるので一層それが際立つ仕組みだ。
短く儚い、しかし楽しく純粋なひとときを過ごした観客は、この恋人たちと秘密を共有することで、二人への感情移入がさらにしやすくなっている。秘密の共有は関係をより強固なものにする。
観客は、はじめのうちは、ジョーの知らないことを知り、次にアンの知らないことを知って高見から彼女を見つめ、最後にはこの二人以外の登場人物たちの知らないことを知り(というより再認識させられ)秘密を最後まで共有することで、特権的な立場を与えられつづける。
脚本の妙というべきか。ただし、こうしたよく出来た脚本(ほん)を映像化するには相当の手腕を要するし、監督ウィリアム・ワイラーはその期待に応えている。中でも全編に溢れるユーモアと軽みは特筆すべきだろう。
そして、何よりもオードリー・ヘップバーンは欠かせない。オードリー・ヘップバーンによってアン王女は永遠になった。彼女以外にアン王女は考えられない。相手役のグレゴリー・ペックが、癖のない普通の男前なのもいい。あくまで主役はアン(その無垢や清純さ)なのだから。二人が性的な匂いを感じさせないのも役柄に合っている。

次回につづく。