『ローマの休日』
恋愛映画があまり得意でない僕でも『ローマの休日』は、さほど抵抗なく観ることが出来る。一応ラブロマンスと銘打たれてはいるものの、この映画の主筋は某小国のやんごとなき王女アン(オードリー・ヘップバーン)が、かた苦しい公務を放り出して勝手にローマめぐりをするという、ちょっとした冒険譚になっていて、また、ローマの名所旧跡案内でもあるからであって、恋愛要素は実は案外希薄なのである。
王女アンの案内役を仰せつかるのが、グレゴリー・ペック演じる新聞記者で、最初はスクープを取りたいという打算からお転婆娘に付き合う。アンの方もさまざまな小冒険や遊びやハプニングを歳上の彼と共有することでようやく淡い恋心らしきものを芽生えさせるのだけど、しかし、それも物語のほとんどエンディング近くになってからで、ラブシーンもごくあっさりしており、三角関係や浮気や嫉妬のドロドロ劇とは無縁である。アンにとってはまず初恋らしい初恋のはずだし、そうした爽やかさと別れの切なさが婦女子の琴線に触れもするのだろう。
また、王族という高い地位にいて庶民の生活を垣間見てみたいという女性の憧憬と、高嶺の花の綺麗な女性と束の間の逢瀬を楽しみたいという男性の願望の両方を満たしている話だとも言える。
さらに、男女が相思相愛でも、色んな理由(地位の違いや立場や気持ちのすれ違いや金銭など)によって、別れなければならなくなる、そんな悲恋の一つくらいは、いっぱしの大人であれば二度か三度は経験しているはずだから、そんな万人に共通する感情もこの作品は刺激してくれる。
『ローマの休日』が人を惹き付ける要素はまだある。そして、これこそこの作品の一番の美質だと言ってもいいくらいだ。
アン王女が夜中にホテルを抜け出し、ひょんなことで泥酔してしまったのを仕方なく介抱したのが、新聞記者のジョーなのだが、はじめのうちは、彼もこのお転婆娘の正体を知らずに相手をしている。この時点では、観客は新聞記者ジョーの知らない情報を知っている、いわば、より上位の(神の)目線で事態の進行を追うことになる。ここではジョーに対して観客の優越意識が起こる、それは、アンが王女様であると気付いてくれという願いを観客に抱かせることになるし、(また、王女の庶民生活との遭遇によるユーモラスな場面も展開される。)やがて観客の目線は、新聞記者がアンの正体を知り、特ダネを得るために彼女と付き合いはじめたときに変化する。アンはジョーに連れられて、トレビの泉や真実の口を訪れたり、スクーターを飛ばしたりダンスしたりするのだが、ここでは、アンの知らないこと、つまり、彼が後にどういう恋心を抱くにしても、きっかけはあくまで特ダネを得る目的で行動していた、いわば打算的にはじまったという事実を、観客は強く意識して物語の進行を見守ることになる。こうした情報のギャップはやはりユーモラスな場面を生み出すのだが、それ以上に、オードリー・ヘップバーンの天真爛漫さや無邪気さや無垢や純心を際立たせることにもなっている。かてて加えて、ジョーが職業記者である事実を知ったときの彼女の反応にも観客は一抹の不安を覚えたりもする。(この一抹の不安は最後の場面で解消される)
小難しく説明したけど、要するに、ドリフターズのコントを観ている客席の子ども達が、「志村、うしろ、うしろ」と囃し立てる心理とたいした相違はない。観客は、志村の関知しない事態を知っていることで、ヤキモキもするし、登場人物にたいしてある種の優越意識を持つことができるし、こうした状況設定によって笑いももたらされるのである。作の品格やお洒落具合こそ違うものの、実はドリフの「志村、うしろ、うしろ」と『ローマの休日』とは大差はない。そして、この観る側と登場人物たちとの情報ギャップによる劇の構造は最後の記者会見の場面で頂点に達するのだが、その話は次回に。
つづく。