『花のかたち 日本人と桜 【近代編】』
中西進:著

その3



この書物の浴身と題された章で扱われているのは、岡本一平の妻君であり岡本太郎の母でもある作家、岡本かの子の桜の歌の数々である。『浴身』はかの子の第三歌集で、その中には「桜」と題する百三十八首がおさめられている。

 わだつみの豊旗雲のあかねいろ大和島根の春花に映ゆ

といったような萬葉調の歌もあれば、また、

 歌麿の遊女の襟の小桜がわが傘(からかさ)にとまり来にけり

のような艶なるものもあるが、身体全体で桜を感じ取ろうとする傾向がかの子にはあったようだ。

 桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命(いのち)をかけてわが眺めたり

命をかけて桜を眺める、とはなんとも大袈裟なようだが、かの子は桜のあらゆる姿態を胸裏に描いて桜の花の歌を詠んだせいで食傷し、そのあと花見にいった時に胸を悪くして実際に嘔吐したという経験があるらしいから、まんざら絵空事とも言えない。げんに《花疲れ》という美しい言葉もある。だから、中西氏も言う。

─……桜にいのちがあふれ、そのいのちに呼応して作者のいのちが漲るのである。

 桜さく頃ともなればわきてわが疲るる日こそ数は多けれ

だから、

─……桜はかの子を圧倒し、かの子を憂鬱においやり、心をわれとわが身に向かわせることとなった。

─……かの子は、桜を恐れた。そして何が恐ろしいといって、満開の桜が所有する空白-無言の領域や時間の静止、または透明な冷たさこそが、恐ろしかったらしい。 

 ひつそりと欅大門とざしありひつそりと桜咲きてあるかも

このあたりのことを、中西氏は『桜への狂おしい体感』と言い表している。そして、

─桜はかの子の血だったのである。

と結論づけて、最後にこの歌をあげている。

 わが家の遠つ代にひとり美しき娘ありしといふ雨夜夜ざくら