前回の『津島神社』の続きです
南門を出て右手
津島指定祖先の遺産
三つ石 ~案内板より~
長径2m、1.4m、3m、短径1m前後の滑らかな
硬砂岩の自然石三個が境内に巴状に
置き並べられている。この三つ石は
尾張名所図会の神社境内図にも
ほぼ現在の位置に描かれている。
この置き石については、何の伝承もない。
当神社は、欽明天皇元年(540)
ここ居森の地に鎮座と伝承されている。
古代祭禮の場として数個の石組を磐座
又は磐境、この三つ石のある場所は
居森の一角であることから、当神社の鎮座と
何らかの関わりがあるかもしれない。
津島市
津島神社ホームページに『七不思議』として
紹介されています。
学問の神様
菅原社 天神さま ~案内板より~
山城国(京都市)北野社(北野天満宮)より
勧請し正保年中(1644~1647)創立された
お社で、元は津島神主氷室氏の邸内社で
有ったのを明治34年現在の所に遷座した
一、祭神:菅原道真公
二、例祭:三月二十五日
お社の彫刻がとっても美しいです
特に脇障子の彫刻
梅の木の下で筆を取る道真公の姿
に目を奪われました
お隣の稲荷社
こちらのお社の彫刻も力強く
立派な造りです
お参りしている人の姿って、美しいな~
神さまの前では皆、本来のまっさらな気持ちに戻って
素の自分になっているからでしょうか
いつも見ていても心が洗われる気持ちがします
桜と椿
綺麗だったのに写真じゃ良く見えませんね💦
居森社と疹社
入口の鳥居のところで
姉弟かな?幼い子供たちが遊んでいました
おばあちゃんに呼ばれて本殿の方に
走っていっちゃいました
津島六社参り『五社目:居森社』
摂社 居森社 ~案内板より~
御祭神 須佐之男命幸御魂
御神徳 無病息災
由緒 社伝によると、欽明天皇元年(540)に
大神がこの地に始めて来臨され、神船を
高津の湊の森に寄せて奉ると、蘇民将来の
裔孫と云う老女が、霊鳩の詫によって森の中
に居え奉った事により『居森社』と云われる。
津島六社参り『六社目:疹社』
末社 疹社(はしかのやしろ) ~案内板より~
御祭神 須佐之男命和御魂
御神徳 疹と疱瘡の守護
由緒 古来より、桟俵(米俵の蓋)に一合徳利の
酒と赤飯を載せ、赤い御幣を挿して、三本の
わら縄で境内の木に吊り下げて、子供の
疹と疱瘡の軽症を祈願する信仰が行われていた。
やっぱり子供の神様でした
ここにも石の献灯台がありました🔥
これで六社全部お参り出来ました~
いつも取り合えず、お参りと写真撮って
後からまとめる時にじっくり読むのですが
六社狙ってお参りしたわけではなかったのですが
ちゃんと、六社参り出来てて
また嬉しい発見でした~
最後にまた、鳩さん
見送ってくれるの~(と思っておこう)
むちゃむちゃ嬉しい
又、絶対来ます
ありがとうございました
南門の両脇にあった石
南門前町の秋葉神社
南鳥居からまっすぐの道沿いに見えました。
恐竜の卵のような石が目印
これから駅に向かって進みます
次は『堀田家住宅』
あいにく閉まってました💦
開館日 土日祝 10:00~15:00
道路沿いの外壁がえんえんと続き
相当広い敷地のようです!
庭木のリュウキュウバイが満開でした
いい雰囲気~、見てみたかったな~
中はこんな感じのようです
重要文化財
堀田家住宅 ~案内板より~
堀田家住宅は、江戸時代中期、正徳年間
(1711~16)に建てられたと言われ、その後
修理や増築が重ねられており、その過程は
附指定となっている。~中略~
この堀田家は、元は福島正則にも仕えた
土豪であり、代々理右衛門を名乗った。
福島正則の安芸(広島)転封を機に津島へ
戻り、祢宜町に居を構えた。後代には、
酒造業や金融業、新田開発なども手掛ける
富商となったが、中には和歌や俳諧に
長じた文人も輩出した。座敷部の東北隅に
ある茶室は、お茶所津島の象徴であると
ともに、こうした堀田家の家風をも
偲ばせるものである。
この住宅は、外観平面や構造、内部の意匠
に尾張の町家建築の色を濃く残すものであり、
貴重な遺構である。
津島市教育委員会
前回の『津島神社⑴』の摂社『弥五郎殿社』を
寄進した堀田弥五郎正泰氏の子孫に
つながるのでしょうか。
また『堀田氏』はウィキペディアによると
”堀田氏は元は祇園八坂神社社家(紀姓堀田氏)の流れで京に残った系統と同社家分流の尾張国津島神社社家の二つの流れのうちの尾張系である。土豪の一族も津島神社系堀田氏の分家である可能性が高い。南北朝期に活動した堀田正泰の子孫の一部が武士化して津島を基盤に発展、仕えた織田氏、豊臣氏の全国制覇とともに歴史の表舞台に登場していった。これが近世大名の堀田氏で家紋は堀田木瓜である。また、津島神社社家を代々務めた堀田氏は「右馬太夫家」といわれ、武士化した一族とは別に津島で発展した。また、この系統から派生した「番頭太夫家」は近世に商家として発展した”
とありました。
天王川公園
この『堀田家住宅』のすぐそばに
『天王川公園』の中に、津島湊址があります。
かつて織田家の繁栄を支えた津島湊
この天王川を交易ルートとして
「尾張の金銀は、すべて津島を経由する」
と云われるくらい、様々な物資が津島湊に
集まり、尾張の商業都市として発展しました。
昭和初期の横浜や神戸に匹敵するほどの
大貿易港だったとか
信長の祖父がこの地を掌握し、その後の
織田家の財政を支える重要な都市だったんですね。
この公園で『尾張津島天王祭』が開催されます。
天王川は、土砂の堆積で川底が徐々に浅くなり
度々起こる水害防止の為、江戸時代1785年に
大堤が築かれ堰き止められました。
天王川公園は河川跡を公園にしたもので
周囲は堤防跡で高台になっています。
かってここ全体が川で
桜並木🌸が今も川べりだった頃を
思い起こせます。
土手の上には薬師堂
日向ぼっこの亀
白い鯉
階段と鳥居のところが
天王祭の時の御旅所です。
駅に向かって
県道68号名古屋津島線=佐屋街道を進みます
旧町名
筏場 ~案内板より~
この辺りは周辺が水辺で、筏の繋ぎ場で
あったことから「筏場」と名付けれたのでしょう。
中世の後半には開発され、中世城館や
大きな寺院が造られていきました。
尾張津島天王祭の筏場車を出していた
筏場のまちは、坂口町、高町屋、横町を含む
地域だったと考えられます。
筏場神社
立派な龍さんの彫物です
両脇障子の彫物
町内の方がお参りに来られていて
立派なお社ですね~とお話したら
「自分らの町のお社だからね~」と
大切にされているのが伝わってきました
旧街道沿いの佇まい
広いお屋敷
古い町割りの敷地がそのまま駐車場
スタート地点の観音寺に、戻ってきました~
無事のお詣り果たせました
ありがとうございました
町のあちこちに小さな祠や神社、お寺がたくさんあり
古い日本家屋や昔のままのゆったりしたお庭や垣根
ついつい惹かれる細い路地、街歩きが楽しい
愛知県は実は日本一お寺の数が多く(4589)
二位 大阪(3396)
三位 兵庫(3289)
四位 滋賀(3213)
五位 京都(3077)
出所:文科省宗教統計調査(平成28年12月31日現在)
愛知県の1位、納得です
津島だけでこれだけたくさんあるんですもんね。
京都が5位って意外でした
この日の晩、たまたまテレビをつけたら
ちょうど海老蔵さんのドラマ
『桶狭間~織田信長 覇王誕生』(HP参照)の場面で
若き信長が、若人衆と津島堀田家邸内で
宴会を楽しんでいるシーンを出てきました
今日、行ったところだっと見ていたら
堀田道空(竹中直人)『信長公記』に記述がある謎の多い人物
が当時栄えていた尾張の商業拠点・天王川の
津島湊の頭領として信長を支え見守る役どころ
として出演されていました。
一気にドラマのシーンと
訪れた場所がバチバチと一致して
ものすご~く腑に落ちました
思いがけず、
知らなかった歴史や文化に触れられた
魅力的で素敵な津島でした
今回も最後まで読んで頂いて
ありがとうございました
次回は『伊勢参り』案内します