2月冒頭まで国立高等教育機関に関する企画展が湯島で行われていて、たまたまだが見に行って、桐生の染織学校の存在をわずかに意識することとなった。


このときにはそれ以上のことはなくて、むしろ、上田の蚕糸学校のほうが興味の対象だった。

昨年度までに群馬県の絹産業系世界遺産を見学して、国内の養蚕業や製糸業の模範工場や教育機関が世界遺産として登録されたことや、群馬県および埼玉県北部地域が国内の模範として活躍してきたんだ「アピール」を散々受けつつ、1つの疑問があった。

「なぜ、そこまですごい地域ではなく、上田に蚕糸の高等教育機関ができたのか?」

もう少しいうと、それより先に

「なぜ高山社は昭和2年という早い段階で閉校することとなったのか?」

という疑問を持った。

実のところいまだにその答えを見つけてはいない。ただ、背景事情がようやく見えてきた。

富岡製糸場は明治初頭の設立だが、明治も後半になると産業構造の変化がやはり起きつつあって、技術革新は次なるステップに移行しつつあったような記述があり、1つとしては糸産業でも養蚕業や製糸業から撚糸業、織物業の部門でも模範的工場を作りつつ、蒸気機関ないし電気の利用が進められたという話がある。

「明治後期に撚糸の模範工場が全国6カ所に設立され、うち2カ所は足利と桐生であった」

かたや栃木、かたや群馬だがほぼ隣町のようなものである。他の4カ所が米沢、富山、福井、京都というのだから、相当な密度である。

この時期までの国立高等教育機関は帝大は東京京都にせいぜい東北と九州があるくらいだし、旧制高校、専門学校とも一県一校にさえ届かない状況だった。そのような中で、「専門学校は地元の産業育成の観点から整備された」ようなのである。

群馬県は桐生の染織学校の設立に相当積極的な関与をしているものと思われる。
県立の織物学校(詳細がわかる資料を見つけていないのでこれを調べたいのだが)を廃校にしてまでいるのである。

先も書いたようにその時期の国立専門学校は一県一校にさえ届かない。そんななかで隣接する長野県に1910年に蚕糸専門学校が開校し、1915年に桐生に染織専門学校が開校した。

まだ謎は残るが、1つの点として、群馬県は長野県よりも糸産業でもより高付加価値の撚糸、織物業といった、糸からさらにつぎの工程を重視したということがあり得るのではないか。

群馬県の世界遺産は明治40年余のなかでもうバトンタッチを進めていたのかもしれない。事実、富岡製糸場も1890年代には払い下げられ、民間工場になっている。

明治期はまだ養蚕改良や機械製糸が普及する途中だったが、群馬県はもうつぎの段階を見ていて、他の産業に軸足を移していればそれはたしかにリードを失っても仕方ないというところはある。

結論はわからないが、大正期以降は染色、織物業を発展させたり、それに付随して機械工業等を発展させて現在の一大工業地帯を形成した、というピクチャーは正しそうである。

だとすれば、世界遺産が群馬県地域の産業に対して果たした役割を見るときにはその名誉ある撤退も描いてしかるべきように見えた。

とはいっても、それが真実なのかはよく分からないし、そもそも教育機関に軸足を置き過ぎたものの見方をしている気がするが。