自然科学の一般向け説明は概して歴史的なものによってしまう印象がある。
これはある意味では合理的である。というのも、知らない人が、研究のステップをそのまま追体験して現状に至るわけで、知らないという状態や、そこから知る状態までに遷移する途上で起こる認識の問題などをも追体験でき、科学を結果にとどまらず、途中の発想も含めてみることがしやすい感じがある。
しかし、個人的にやはり科学の歴史にしたがうのは不合理だと思う。というのも、1つに量が多すぎて頭が回らないし、最後に完成させる段階でやはりいくらか論理的飛躍に感じるような何かがあるように感じる。実際、研究の全てを教科書で取り上げるわけでもない。
それ以上に、聞き手の立場として、わざわざ、途上段階の学者の誤解を拾う必要もないだろう。
というわけで、量子論の一般人向け説明を考えてみたい。
そのためにいくつかの視点から考えを掘り下げて見ようかなと思った次第である。まずは。
いきなり「量子論の公理」について。
何が難しい?多分これは、
「物理理論の前提とする理論であること」
量子論なに?と言われて困るのは、やはり「理論の前提」という点だろう。あまりにも根底部分から覆してしまうために、何から話せばいいのかわからんよ、っていう感じが否めない。
理論の前提とは何か?
まず「前提」ということそのものを慣らすために、人間がある部屋にいて暑い寒い、快不快を制御するような状況を考えてみよう。
このとき、人が一人いる部屋があって、そこにエアコンのようなものがあって、温度を調整できるようにしよう。温度を調整すると確かにそうした暑い寒いや快不快の状態が変化する。ここで調べた時に25度だと快適、という結果を出して公表したとしよう。ここで質問。それに基づいて「じゃあうちも25度にしよう」として25度にした人たちは皆快適な思いをすることができるでしょうか?
現実的にはそんなことはまずないことを大概の人は知っているはずだ。
これを授業で言えば「湿度考えてないじゃん」「人が違ったら全然違うはずだ」「たくさん人がいる部屋だと暑い」「エアコンの設定温度と実際の温度が同じとも限らないし」などと色々な意見が出てくると思う。
「25度だと快適」という結果をもとにして25度にしよう、という行為がうまくいくには前提として、まず「快適な温度が存在している」こと、そして「温度を管理すれば快不快を一律に制御できる」ということを置いているだろう。
授業で言えば出てくるだろう話は後者の前提を覆している。
物理の世界では、ここでいう温度、湿度にあたるような、おおよそ客観的で、測定によってわかる量を「物理量」という。快不快というのは物理量かというと微妙だが、通常の物理では物理量についての特徴を見たいので物理量を選ぶことが多い。が、一応、文脈を広く見るために、「性質」「情報」などと表現させていただこうとおもう、
量子論以前の古典的な物理学では、特徴的な物理量(それは1つかもしれないし、非常に多数あるかもしれないが、しかし有限な個数)について、それら数値として全部知ってしまえば、他のありとあらゆる性質(少なくとも一定の範囲内においては)は、それを特徴付ける数値として全部決まってしまう、という考え方をする。
それゆえ、特徴的な物理量から、ほかの性質を特徴付ける数値を導く方程式がひたすら出てくる。
実際、力学と呼ばれる分野であれば、「位置、速度、それを測定した時刻」があると、現実の問題に対応するラグランジアンさえ知っていれば、ありとあらゆる情報(具体的にはエネルギー、軌道、などなど)を方程式の形で導くことができるし、熱力学においても、特定の変数(温度、体積、粒子数など)と熱力学関数さえ知っていれば、別の情報(具体的には比熱、圧力、電圧など)を全部方程式の形で導くことができる。
量子論はこの「数値として」という前提を諦める。
物理量を「数値として」知るには具体的には何か測ってあげるようなことをしなくてはいけないので、逆に言えばわれわれは、測る前にその物理量の値については何も知らないわけだから、測るより前のその物理量が元から決まっている必要もない(もちろんそれを推定するありとあらゆる術が使えないような状況下を念頭に置いている。)。
そうするとひとつ雑念として「測定がその物理量に影響してしまうのは現実的な測定だからで、理想的にその影響をなくせないというのは強すぎるし、理想的な測定だったなら、そもそも『測定』である限り、影響しちゃダメでしょ」と思いたくなる。そのあたりの解決は後ほど「射影仮説」で説明する。
量子論はどう前提を書き換えてくるのか。まずは一通りの前提を書き下して見るか。
(1)状態をヒルベルト空間上の元である
(2)物理量をそのヒルベルト空間上のエルミート演算子とする
(3)物理量の固有ベクトルと、状態の内積絶対値2乗がその固有ベクトルに対応する固有値を観測する確率になる(ボルンの確率解釈)
(4)時間発展はシュレディンガー方程式による
(5)測定をすると測定された値に対応する固有状態に遷移する
うーんわからん。わからなさすぎるので、ちょっとずつその前提となる気持ちを汲み取りながら読み取れるように、(2)と(1)をちょっとひっくり返したりして解釈を突っ込んでみようか。
前提(をいくらか平易にした表現として)
(2)測る対象について何らかの物理量を理想的に測った時、必ずいずれかの実数値が出てくる。(ただし、最初の段階でどの値が出てくるかをわかる必要はない)
この前提は古典的なものとさほど変わらない。ただし便宜上、この前提に対応して、出てくる可能性のある実数全てに対して、「その実数が出てくる状態」というものを考える(具体的にはどんな(理想的)測り方で(測り方を変えてもいいから)何度測ろうと、必ずその値が出てくる状態)このような状態を便宜上「固有状態」と呼ぶことにする。
ここで意味がわからなくなってくるだろうから補足しようと思う。
コインの表か裏か、を物理量だと思うと、「表」か「裏」の2つの値が出てくる。コインの場合はっきりしているので誰がどう見ようと、みな一様に「表」か「裏」か同じ結論を言うだろう。これが「理想的な測定」で、「表」や「裏」が値になる。実数じゃないじゃないか、と思うかもしれないが、表を1とよび、裏を-1と呼ぶようにでもしておくのである。(あるいは逆に数字についている名前を1とか-1と呼ばずに「表」と「裏」という名前にするのである。ここで実数値という言い方をしていることにはさほど意味はないのである。)そして、「表」とみんな答える置き方のことを「表」状態、「裏」とみんな答える置き方のことを「裏」状態とでも呼ぶことにして、それらを総称して「固有状態」というのである。
(1)一般的な状態は固有状態の線形和で記述される
古典的な考え方では「一般的な状態は固有状態のいずれかである」と記述できるため、その意味で少し変化する。
やはり難しいだろうからコインの例でいえば、我々は最初から「表」か「裏」かの二択しか考えていないのである。しかしそれが「古典的」であって、量子論では「表」と「裏」の他に、その線形和が可能ということにしておくのである。
絵的なイメージを作ると、高校のベクトルで、x方向を「表」、y方向を「裏」と呼んだ時に、xy平面上のどんな方向に向かうベクトルも「状態」足りうるという話である。
(高度な注1:古典においても確率的な「状態」を議論する場合があり、その場合は(2)の前提を採用する。
高度な注2:しかし、この前提も単に理論として、古典の場合から幾らか拡張しながら、かつ計算の便がうまくいくためなので細かい芸当にはあまり意味はない。現象的な意味を見るにはボルンの解釈をかませる必要がある
高度な注3:量子論では係数を一般の複素数に取るため、本当は平面ではなく、x方向y方向とも複素平面となって4次元現れる。しかし、(3)の前提と合わせて議論することで球面に落とすことができる)
波と粒子の二重性云々も実はだいたいここら辺に隠れている。
(3)一般的な状態に対して測定を行なったとき、固有状態に対応する値をみる確率と、対応する固有状態の絶対値2乗が比例する。実際の確率は全確率が1になるように正規化することで得られる。
要は固有状態各々じゃなくて、線形和とっちゃったものは、なにが固有状態と違うの?と聞かれた時に、確率的挙動を示しますよ、っていうのがこの点。
(4)状態の時間発展はシュレディンガー方程式による
古典力学でもわかるように、過去、現在、未来は次々刻々変化する。そうした、時々刻々の変化を見るにはシュレディンガー方程式と呼ばれる方程式を使いなさい、というのが(4)で、これを組み込むと「量子論」が「量子力学」という物理のお話になる。逆に、(1)-(3)までは物理でさえない。
(5?)理想的な測定は射影測定である(射影仮説)。すなわち、どんな測り方だろうが多数測ろうが、全て同じ値を返し、また、反復的に測定ができるような「射影測定」が、これまでに言われてきた「理想的測定」に対応した測定であり、そのような測定下では、測定によって状態は対応する固有状態に遷移する。
測定によっても不可避的に状態は変化してしまうが、そのような変化がもたらす遷移について記述するものである。
確かにその状態に遷移されてしまったら、固有状態の定義と(3)によって必ずその値しか出てこないし、測定をどんだけしてもそこに再度遷移すると言っているのだから、全部同じ結果を返すに決まっている。一度理想的な測定方法を通じてその値だとわかってしまったら、どんな別の測定方法でその対象を測っても、その「別の測定方法」が理想的な測定方法たり得たら、同じ値が出てくる、と言われてしまったら、科学的検証の考え方からして、やはりその値なんだと信じてしまうだろうし、測定方法の影響が出ているとはまあ考えないだろう。
次回は「粒子性と波動性について」、その次は「エンタングルメント」くらいでボチボチ書いてくつもりです。