物事を考えるうえでイメージに寄るのは私は必ずしも良くないと思うが、もしイメージをするならばいっそのことたくさんのイメージを作ってしまえ、という気もしている。

フーリエ変換というのは関数を正弦波の重ね合わせとして記述する方法で、これによって我々は
・関数を扱う集合をベクトル空間を扱う、線形代数的な見方ができる
・微分演算子を対角化でき、線形微分方程式を解くことができる。また、非線形性が弱く摂動的議論ができる場合にも使える
といったメリットを我々は享受しているだろう。

ところで私がフーリエ変換について作ったイメージの1つにピアノがある。

フーリエ変換は任意の波形にたいして、異なる振動数ごとに異なる(複素)振幅を与える、その振動数を変数に振幅を与える関数を計算する、
というのが数学的な操作の中身なので、振動数に対して「音階」を割り当てて、振幅について鳴らす音の強さを当てれば、
各音階に対応した強さで鍵盤を最初に押すだけで、世にありうるいかなる音(注:瞬間だけでなく、長い時間の音でも)も作ることができる(ホンマでっか?)

というイメージ。

一見嘘だろという話。
これは嘘。もちろんね。なんだけど、そこそこポイント押さえてはいるはずなわけだ。嘘の部分を説明しよう。

まず、フーリエ変換の説明では「複素振幅」という条件があった。つまり、音ごとに位相をずらして足さなくてはならない。

次にピアノの音階には全くない周波数成分がいる。特に低周波成分が必要。フーリエ変換は周波数がどこまでも低いところからどこまでも高いところまであることを考えるし、音を鳴らす時間を音楽の演奏時間と思うとそれを一周期にするくらいの成分から必要になる。それを鳴らさなければならないが、そんな鍵盤はない。

さらに、ピアノの音は残念なことに正弦波ではない。特に問題なのは減衰があることだろう。複素振幅の問題等と合わせて干渉性が壊れて再現能力を失ってしまう。

これらの問題を解決するために時々刻々鍵盤を鳴らしたり、敢えて音を止めたり。干渉性がないことが演奏者の操作技量を興味深くしているのかもしれない。

話を戻してフーリエ変換をピアノでイメージする件について。イメージを持つのはいいのだが、余計な要素が付加されて実際と違う結果に見えるイメージは世の中にいくらでも考えうる。

いっそのこと対応するイメージと実際が違う事象に出くわすのも悪いことではない。
こと数学や物理の授業内容においては「うまくいくイメージ」の構成ばかりが求められるケースも多い気がするが、うまくいかないイメージを生成した人にどう対応するのか?