高度に専門化が進むとその専門領域に立ち入る労力が大きくなる。また、高度な科学知識は多くの場合、直観と専門知識が乖離を始めている。

結果として我々は少し違う分野の知識については少なくともいくらか素朴な理解であっても自らの専門領域でミスをしない範囲での理解に止めざるを得ない状況に陥るだろう。

さてこれ科学研究の領域の外にいたらどうなるか。専門知には到底たどり着けないが、一方で興味がある、関心がある場合がある。

この時専門知を避けた場合、素朴な認識のまま専門領域になんとか踏みいれようとするケースが起こりうる。

こうしたところでお仕事をしている人たちがたくさんいる。自らは一定の専門知を持ちつつ、素朴認識しか持たない人たちが納得するように知識をなんらかの形で紹介するケース。ニュートンという雑誌があるがそれだけ読んでもその分野は理解できない。けれども、理解できたような気分になる。そのような道からたくさんの知識を得られるのである。

さてそうすると起こりそうなこととして、興味はあるが専門知を持たない人が素朴認識に基づいて部分的に築き上げる解釈の山ができることである。場合によってはそこから自説を展開するだろう。そういう人たちをたくさん見てきた。

彼らが謙虚ならまだしも、そうでなければ。自説が新しい要素を持っていて価値があるように見えた時、彼らがそれを新説として唱えることもあるだろう。そしてそれは少なくとも彼らの中で自己矛盾しない「体系」かもしれない。

体系的な知識ならば科学というわけではないが、しかし非常にそれらしい見え方をする。さらに、自己矛盾がないようにみえれば、外から見たとき、それは専門知のTHE科学とは別個ながら独立の体系のようにも見えるかもしれない。

それらがまた再び似たような人同士集まって集合知を形成するかもしれない。互いに「研究」として自ら発表し、意見交換をする。

我々は現象として彼らの動きにこれまでの科学の少なくとも一部の側面では類似した特徴を見ることになるだろう。

この動きは過去の科学とどのような立ち位置になるか。本当に健全なそれならば、互いに矛盾しない形になって、より良い形に落ち着くだろうと思われるが、我々は認知バイアスや経験のバイアスを少なくとも部分的に、数世紀かけて乗り越えてきた営みと、数十年スケールの、人間の一生で完結する中身が食い違うのは寧ろ自然な話である。

外から見てどちらを優位とするかはともかく、独立な体系と捉えれば、個々人、「新科学」を形成しているのかもしれない。

その新科学が既存の科学の上位に僅かでも達するならば既存の科学に対して相応の説得を行うことで科学に吸収されるだろう。

しかし、相応の説得が必要なことは意外に書かれていない事実のように見える。トンデモは相応の説得の部分に認識のマズさを見て取れる。説得のための条件として通常、定義を揃えなくてはならないし、過去の知識との関連を確かめなくてはならないし…特に基礎レベルで文句を言う場合、その負担はかなりの大きさになる。

という問題を抱えている人たちと絡むことになるわけだからトンデモを科学的に穴なく批判するには定義や論理の穴埋めがものすごく必要になる。

トンデモを相手にするのは徒労にほかならない。しかし、トンデモが起こしているような、定義や公理から集合知とズレたものを見て取ることは教育上の障壁を探すことにもなるし、文化相対主義的な立場で相手を正当に評価することにもなる。

何度目かわからぬがなんかやはり書いてしまうものである。素朴な認識やそこにある「新科学」を拾い上げてリファレンスできるようにしたい。