4月がまもなく終わりますね。
大学に落ちた人もとりあえず生活が安定してきた頃でしょうか。
受験ネタというかそういうの連投しているのでそれに合わせて浪人がよかったかどうかについての個人的な話を投稿したいと思います。
私大学受験浪人の経験者です。
以前投稿していますが、東京大学理科一類に結論から言えば1回の浪人を経て、2回目の受験で合格して入学しました。
東京大学に関して言えば浪人しない人が60パーセント台、1浪が30パーセント台、多浪生は残りというもので、1浪はまああって、多浪はそうそうしないという状況が過去数十年続いているようです。
大学入学以降の成績面だけについていうと正直浪人の有無で大きく違うイメージはないですがトップスコアを叩いているのは現役合格の人のような印象があります。東大の人と話をしていると置かれている周囲の環境がまるっきり違って幼少の頃から学術部門の「内野」の感覚を持てていそう、っていうようなハイソな雰囲気を漂わせる人も少なくないし、実際入試スコアの上位にまあそういう人がいる感じもあって、私みたく、中学校でひたすらスコアに固執し、高校でもそれを引きずり続けたようなローソ(サエティ)?人間からするとある種絶対的な壁を感じずにはいられませんでした。浪人コンプレックスとでもいう感じでしょうか。
とまあ当時を振り返るけれども、それから長い月日が経って新たに知り合った人を見たりするとハイソな人でも意外と浪人経験をお持ちの人がいるケースもあって、まあ、浪人コンプレックスについては多少マシになったというか、ハイソな環境に身を置きたかった気持ち自体は相変わらずあるものの、研究室に入ってからそういう人しかいない環境で育ったものの社会の寄生虫のような雰囲気が強すぎてまた抵抗感を覚える人もいたりして、そういう気持ちも弱まったりで今に至っているような感じですが、まあ、浪人のあるなしで集団の傾向はなにも変わらないというのが正直な感想。
とは言っても入試のスコアだけみると人によっては浪人によって大きく伸びていることもあって、個別に見ると浪人が大きな意味を持っていることもあるし、浪人時代の話に意味があることもあって、個々人のライフスタイルだけ見ると浪人が意味を持っているケースもあるので浪人が無意味というわけでもない。
かといって浪人生の方が現役生より人間的に優れているとかいう雰囲気を覚えたことは一切ない。むしろ多浪生を中心にキャリアへのコンプレックスの強さや、それに縛られた「幼さ」のようなものを覚えることも多い。それもまたそういうサンプルが多いということはあっても、一概にダメとかいうものでもない。
という経験をもとに言わせていただくと、浪人するかどうかの選択は
落ちて至った経歴がそのまま自分のキャリアになることに一切苦がない
なら現役を選ぶだろうし、私からしてそのような人に浪人を薦めるつもりはない。というかむしろだったら浪人などするべきではない。浪人などしていいことなどない。このような状況は大学院受験(実は京大の大学院を第一志望で受験していたが見事に滑っている。)で私も至っている。もちろん大学に入った後それで後悔するような場面に遭遇しうるが、それを浪人しなかった当時の判断を誤っていたとするものでもない。正確に言えば、そういう判断のための情報収集が甘かった、という話で、そもそも何かを判断するということそのものの問題であって、その結果自体の「現役を選んだ」ことを後悔するのはおかしい。
というのも、この手の後悔は浪人をした場合にも、第一志望に合格した場合にも起こりうるからである。
さらにいえば、浪人して目標の大学に入った場合にも起こりうる。すなわち、目標の大学に入ったところで、想像していた環境と実際の環境がまるっきり違うというケースは普通にある。
というか、まあ、私が割とそうだったと言える。東大について入る前に想像していた世界と中の世界はずいぶんと異質だった。一応、物理学科に入ってその異質だ、という感触が収まったので物理学科について言えばまた違うのだが、教養時代は大学について外で思っていたものとずいぶんと違っていたという印象がある。とはいっても、今思えばその異質さにあたる部分こそその時期に求めるべきところで、大学というものに自分自身がその異質な部分を排除するべきだと考えていたことの方が無理があるというもので、そう言ったあたりがやはり私の人生の失敗であって汚点になっているのが現状である。
そのような汚点やら失敗やらもまた、おそらく私の場合について言えば、浪人して東大に入らなかったらわかることはなかったはずで、東大で異質さを覚えたからと言って、浪人した選択自体を私は間違っていたとは思わない。むしろ、その異質さがあることに気づくことがなく、いつまでも他大で嫌と思うことがあったら全てそれを「大学のせい」と押し付けていただろうなどと容易に想像ができる。9割以上の確率で東大落ちをしていれば後期受験で出願した東北大に行ってただろうが仮面浪人をしたか、東北大に収まりつつもコンプレックスをどこか拭えない状況だっただろう。あるいは早稲田に行って早稲田でも転科合格という現実に打ちひしがれていたり、大学の雰囲気に馴染めないでいた可能性も高い。そういうことを想像した時には東大落ちの人生など恐ろしいだろう...
浪人してよかったことがあるとするなら、おそらく私がアカデミアの外野で思っていた「理想」や「想像」が現実に乖離した、あまりにひどいものであって、それをたかだか大学選びの問題に帰着させるのが間違いであるという現実を知れたことである。少なくとも、欲しいものを得られたかという観点から言えば、そのほとんどを得られずじまいだったし、その観点だけで言えば正直浪人などするべきではなかっただろう。現役の時から身の丈にあった受験をしたり、ちゃんと滑り止めの私大とか後期受験でもして一年棒に振らないで済ませた方がよっぽどよかった。もし高校2年生までの人生がそのままだが、3年生からやり直すことができるとするのなら、東大受験はしないだろう。やり直すにあたってどれだけその後の結果を知っているかにもよるが、現役で確実に行ける七帝のどこかに滑り込ませただろう。実家暮らしは不自由だったので名古屋以外の、よくて大阪、おそらく実際には東北か九州、場合によっては北海道だったかも知れない。一般に七帝という括りがもはやブランドとして意味をなさなくなってもいまのところの物理学科の教員の数やカリキュラムの内容は七帝がいい感じがあるので七帝を選んでいた可能性が高いだろう。受験難易度としては東工大もありえたが、おそらく別の理由で東工大は避けていた。
しかしもし中学生あるいは高校一年生あたりからやり直せていたならこだわりをこれほど強くはせずともやっぱり東大受験を狙っていただろう。スコア厨にはならずに、勉強に対する考え方を直したら浪人せずに東大に入れたに違いないし、だとしたなら小学校の頃の自分がもってしまった認識に対して東大に入って現実を見るのが大事だったに違いない。そのような流れでもし小学生からやり直せていたなら、あるいは両親がアレでなかったなら、そもそもが地方国立大の工学部くらいで丸く収まっただろうと思う。とくに両親に問題がなかったのであれば岐阜大学か名古屋工業大学(注:親父の第一志望の大学)を出て親父の会社を継いだだろう。それが「身の丈にあった人生」であって、それに不満を持たなければ平和で幸せだったと思うし、それを願う自分が普通にいる。人生に対する願望はこのような形で前提が少し変われば全くコロコロ変わるものだろう。浪人の判断の良し悪しなどというものは少し前提が変わればまるっきり変わってしまう。人生が大域的に、すなわち生まれてから死ぬまで全体で最適解であるとは毛頭思わないが、局所最適解を選んでいるというのは割と私は正しいと信じられる。
判断の情報収集の雑さへの後悔は正直なところ尽きることはない。
大学受験も、大学院受験も、というか私の経歴の思いつく本当に多くの場面において、最終判断は失敗だらけである。「こんなはずじゃなかった」ことばかりである。受験浪人も一年棒に振った感触があるし、研究生活も今の所2年以上「棒に振っている」感触がある。就活でそれをやりたくないのだが、それをやりそうで本当に怖い。というかまあ、就活での情報の集め方の話をちらほら聞きながらそりゃ自分のこれまでの情報収集ゴミクズだわっていう判断はつく。
しかし、そのような持っている情報・状況を変えられないとするならば、とってきた判断自体に後悔は一切ない。良くも悪くもまあその結果として東京大学のブランドもあれば、そこにいる間違いなく日本で一番頭のいい人たちと暮らすことができた事実もある。
浪人がいいか悪いかで言えば、大事な一年を棒にふるし、どの大学でもカリキュラムの違いはあれど自学や教員との関係、twitter等の情報ツールを利用した遠隔の学生との交流等を活用して穴を埋められないほどとは思わないし、その上もう一度落ちたらその一年なんだったんだってことになるし、さらにそもそもがどこの大学行ったところで学業以外の大事なことがあってだな...いいことなんてないようにしか私には見えなかった。ないけれども、ないことを知り、納得させられる唯一の術だったという意味で私の場合はしてよかっただろう。し、そういう変な例かも知れないがそういう例を知っている以上は、いいことがないという認識を持っていても他人の浪人を止める気は毛頭ない。寧ろ、浪人をしたい人には積極的に浪人をお勧めしたい。浪人で結果が得られること以上に現実を認識する確かな方法はないのだから。
ということで私は、浪人する決断をしたあなた方が浪人を納得できることを願っております。