私は受験ということに限れば成功者の部類であるとおそらく言わざるを得ないだろう。

・愛知県立旭丘高等学校

・東京大学理科一類

・東京大学理学部物理学科

・東京大学大学院理学系研究科物理学専攻A1サブコース

ここまで、おそらく受験の難関という括りに入っていないところを通ったことがない、と言っても過言ではない。

 

そのような経歴をたどれたことはあらゆる偶然が重なったところであり、また非常に幸運であったと少なくとも自覚している。

 

ケチをつけることができるポイントは実のところたくさんある。また、これにケチをつけてくれる人は普通にいることも知っている。しかしながらかつてこれを得ぬ前の私が、特に浪人していた時に覚えていたような学歴への渇望、飢えを感じることはもうない。得たいものを得て満足してしまった感じが強い。

 

しかし得てして、受験の前に想定していた状況と実際の状況は大きく違ったと言わざるを得ない。周りから聞くに

「理一ドイツ語はみんな静か」「理一ドイ語はガチプロがいるから質問できる」

等々、まあ東大の中でも言われている。嘘ではないが、とはいっても理科一類ドイツ語クラスでもテニスサークルに所属して物静かとは程遠い(と私には感じる)ような人も普通にいるし、後者についても学科の強者はロシア語クラスやスペイン語クラスにいた記憶が強いもので、ドイツ語クラスなら強い人がいること自体は間違っていないが、別にどのクラスでも強い人ならいるでしょ、っていうのが私の正直な感想である。

 

というかまあ、東京大学であってもそういう状況なのである。本当に真面目で物静かな雰囲気の人は意外と少ないし、他大の知り合いで多数いる。東大の方が全体に占める割合は大きいかもしれないが、受験難易度は「相関」はあたえうる、という程度だと思う。絶対ではない。


入試がもたらすセレクション効果は存在するが合理的ではない。入試で言えるのは単にあくまで入試の点数での順序という結果だけで、何年も経ってみれば「当時の」という単語を冠さねば外れるし、模試を複数回受けていればわかるように順序は容易に入れ替わる。

 

学校名や学科名はブランドとしての価値を持つ場合はあるけれど、以前紹介したようにシラバスや履修のしくみをしっかり押さえた上で大学名に固執せずに内容で受験を考えて欲しい。

 

東大に入って窮屈な感じを覚えることとして、他大の人に自分の大学名を言ったり、相手の所属を聞いたときの反応がある。


いちいち「試験は得意ではなくて」とか言われると困る。さらに厄介なケースはこれに加えて「勉強は好きなんだけど」とか言われるケース。確実な学歴コンプレックスの指標になる。自分の学歴に不満足でありかつ、強く優劣に意識を向けてますということを示唆している。そういう人が少なからずいる。


そりゃまあそうだ。頑張った受験で失敗したら凹むわ。凹んだ自分をなんとか納得させるための言い訳を成功者に向かって放って承認を求めてる感じがとても強い。


が私はそこはそもそも不問というか、それには価値を感じてないし、不問の人の方が多いでしょう。


私の場合だが、結論から言って何を専門にしているのかとか、環境として、地理的なところや専門大学か総合大学か、など交友関係等に影響する点などを見て話のタネを作るための推測をしたりするとっかかりにはなりうるが、受験の優劣は一切興味はない。浪人もしているので受験という全体で見れば話の種に困らないコンテンツだが、優劣とかそれに起因する(と勝手に推測されてる)問題に興味があるわけではない。


こちらからすれば自分の所属しない大学としている大学では知っていることの量があまりに違うし、ほとんどの場合受験さえしていない。私の場合

東京理科の理学部物理学科

早稲田の先進理工学部物理学科

早稲田の教育学部数学

の3つは一応浪人した際に受けたとはいえ入試のことはほとんど記憶にないし、(早稲田の教育の数学は受けた瞬間に問題の作りの雑さのようなものを感じて「これでセレクションできるラインとはなんだ?」などと当時思った記憶はある。)実は早稲田の先進理工の物理は落ちて応用物理で合格を貰っている。


受けてもいない大学についてその入試問題が簡単とか難しいとかわかるわけもないし、いわゆる偏差値云々も試験問題の作り方や受験する集団の取り方によってかなりズレる誤差付きの話なので、こちらとして受験についてその場でわかる話で「見上げる対象」とも「見下す対象」とも言えることなどないわけだ。


というかまあ、寧ろそんな判断情報を持ってないし過去のことにすぎない話に興味はない。承認に関していえばその後何をした?という点だろうか。


振り返ってわたしは自己承認ができないのでまあおんなじことを別分野でいくらでもやってますね…


自分を受け入れるという言葉は簡単だが、なにをすればいあかは全く情報のない言葉がスローガンとしてあり続けるのは本当に辛い


ただ、1つの可能性としては、過去の否定したい自分に対する否定衝動を、否定する理屈を潰すことで止めること、という仮説を立てて文をしめます。