高校の勉強は専門よりも広く学ぶということについておそらくかなりのコンセンサスがあるように思う。というのも、高校において専門分けといっても実のところ「文系」か「理系」というわずかに2つの括りしかないわけで、各々の科目は本来のその科目のごく一部について、しかし歴史的経緯等を踏まえて俯瞰的に触っている。
高校、特に普通科の高校というのは、義務教育と高等教育の橋渡し部分に当たるもので、高等教育を受ける前の、いくらか準備的な段階という扱いがある。それが実効的に機能しているかどうかはともかく、その本義として、高校教育は広く教養を身につける下地として、あらゆる学びに対して可塑性を持ちながら、一方で教養を身につける能力を養う段階であると私は思う。
そういう中にあって、高校では言語系、社会系、理科系の幅広い部門について一定程度の知識を習得していかなくてはならない。さらに、小学校や中学校といった段階から、大学教育、特に専門というような、非常にハードなところへとわずか3年でつないでいくという人生のとてつもなく大きな事業である。正直なところ、高校生に求められていることを3年でやり尽くすのは厳しいだろう。
それゆえ、私は思うに物理の学習においても、今後につながる一定程度の理解を深められさえすれば、高校の範囲は合格点なのではないか、という気がする。そういう観点から物理の学び方を考えてみるといくらかパターンがあるように見える。高校の標準的なテキストは以下の全側面を持つ代わりに、実際の高校テキストは互いが互いに不十分さを招くようなところがあるような気がしている。
(1)「理論体系」の存在
小学校や中学校での教育はあるところで学んだ知識と別のところで学んだ知識が論理的に交わることはまずない。しかし、高校の物理ではそれが存在する。たとえば、「運動量保存則」と「力学の第三法則」は(ほとんど)同等の議論であり、互いに片方からもう片方を(いくらかの付加的な条件を加味することで)導出できる。互いに行き来できるような議論であるにも関わらず別個に紹介されるのは、場面に応じてどちらが便利どちらが不便ということがあるということである。
これに限らず、多くの問題で普遍的な前提と、一定の利便性があるが特定の場面でしか使えない限られた知識とがあり、それらを駆使して問題を解いていくということにも直面する。知識の間での関係性や場合分けなどが多岐にわたって、一つのまとまりになっている、という状況に直面する。
一見当たり前に見えるかもしれないが、家庭教師などで教えていても、同級生等と話していても、大体の高校生は何が前提でなにが付加的な条件でどういう時に使えるか、を的確には答えられない。それ自体は学校でしっかりと教えられているのではあるが。
実際、そこをしっかりと押さえられさえすれば、物理は偏差値100くらい叩くことは問題設定によってはできてしまう。偏差値100というと恐ろしく聞こえるかもしれないが、科学的な仮説検定の立場に取ると「有意に差がある」と認めるには5σ区間くらい必要なのでまあ、偏差値50の人と有意に差がある学生をより分けるには偏差値100くらいの学生を取ってこなくてはいけなくて、じゃあ何が違うの?ってなった時に一つ出て来る要因だろうと思われる。
偏差値100なんて無理!って思うだろうが、気にするべきポイントは簡単で、「その知識に至るまでにどんな知識を使ったか?」「どういう知識を使ってそれを証明したか?」という互いの関係性を意識するあたりだろう。もっとも、最初の前提になっている知識もあって、その知識については「どの程度の普遍性を仮定しているか」をある程度意識するといいだろう。
(2)歴史的・科学的見地
科学的な知識が生み出されるときにはなんらかの科学的とされる議論を経ている。そして、それらはその時期よりも前の科学を前提に構築される。高校の教科書や資料集を見ると歴史人物や歴史的論理構成は比較的重視される。
すなわち、どういう形でその知識が科学的見地として生まれ、評価されるに至るのかは知識をいかにしてそれが正しいかを判定していく科学の営みにおいて重要であり、また、歴史を辿るのはそういう観点で非常に豊かな資料であるため、こうした認識を持てることも一つありうる立場だろう。これも高校のテキストだけでは難しく、科学論や何らかの勉強を挟まない限り攻めづらいが、そういうことの存在を意識して教科書を見て、その登場人物が何を考えたのか、を意識して調べれば得られるところは大きいだろう。
特に、現代から見て限られた道具や知識しかない前提で、その知識を「証明」するには何が必要なのだろう?と考えるのは(1)にも対応するところがあって、非常に勉強になる。
(3)問題を解く技術
高校生の多くや、親御さんの多くは大学受験にたいしてその突破を最重要視するところがあるようにみえる。その意味ではこの観点を誰も欲しがっているだろう。実際のところこれを実現するには個人的には(1)を部分的にでも実現する、というところしかないと思っている。結果論として付いてこればいいというのが私の認識である。
しかし、それが誰にでもできるなら全員偏差値100だろっていう話になってしまうわけで、だったら問題を解く技術を部分的にでも身につけるのが筋かもしれない。実際上、高校の知識では理論の体系化は不十分で不自然な箇所もあるし、体系化をする数学的体力も厳しい。そんななかでできることを考えると「いらないものを捨て去って骨組みだけにする」「問題レベルに知識を再編する」ということだろう。
つまり、歴史やら他分野の知識との絡みなど問題を見る意味で複雑な要素を省いて、一見同じ知識を何箇所にもばらけて記述するので非効率的なのだが「問題集」を中心に勉強するということである。
正確にいうと、「問題集の答え」を教科書だと思って勉強するということである。
問題集にもだいたい前提の知識は書いてある。しかし、それを一目で解ける人はいない。のだが、その知識がどう組み合わされて問題が解かれているか、ということに目を向けて確実にその問題をほぼ一通りの考え方でうまく解けてしまうことをみていく。これを繰り返すというものである。
おそらくこのやり方が一番、現実的で(1)を実感できるすべだろう。