重要度は高いが論理構成というか、「で、結局何をどう使うの?」ってところまでが見えづらいイメージのある熱力学。熱力学というのは構成はいわゆる熱力学の第●法則という形で教えるものを採ってくると
(1)平衡状態なる状態の存在
(2)平衡状態の系に対するエネルギーの出入りは示量変数の変化による1フォーム+「熱」である。
また、非平衡状態を考える場合についてもエネルギーの出入りは明確に定義される仕事がある場合には、「熱」を評価できれば評価できる。
(3)熱力学第二法則(例えばクラウジウスの原理)
で「公理」は尽きているのだが、そこから何をどう構築してどう処理するかというのが力学に比べてわかりづらい。
ここに書いてきた文を追ってきたところでおそらく「よくわからない」というのが感想だろう。
これらの公理は全て一体運用することで「使いやすい形」に持ち込むことができる。
その流れは(2)なる公理がミソになる。すなわち、
dU=d'Q-pdV+μdN+...
と記述することができることを主張しているのだが、これに対して(3)を上手に
「ある関数Tを用意するとd'Q/Tを全微分にすることができる」
という主張に直す。この「」部分の主張をもう少しわかりやすくすると、
d'Q/Tは何らかの文字X_1,X_2,...をもちいて
d'Q/T=X_1 dU+X_2 dV+...
などという書き方ができる。このとき、UやVを動かすと経路を指定することでd'Q/Tを「線積分」することができる。線積分するということは、その原点から経路をたどって得られる仕事(今回の場合はTで割っているので厳密にはそうではないが)を計算できていることになる。
このときの「原点」と「経路」をどのように選んだとしても、その経路がもし元に戻ってくる経路だった時には、線積分の値が0になるときを「全微分」という。
全微分かどうかの判定との兼ね合いでポアンカレの補題というものがあり、これは熱力学では「マクスウェルの関係式」が常に成立していることと対応する。
そのような場合には、適当な関数S(U,V,N,...)、ただし、U,V,N,...の変数はd'Q/Tの展開で出てきたdU,dV,...のd●の●に取るのだが、そういう関数を持ってきた時の全微分として記述できることが言える。
このような経緯をたどることで熱力学は公理を
(1)平衡状態は(U,V,N,...)なる変数で特徴付けられるものとして定義される
(2)その挙動は熱力学関数S(U,V,N,...)で記述できる
(3)物理量との対応はU(S,V,N,...)と記述しなおし、エネルギーの移動と対応づけることで得られる
(4)複合系について各々のS_iの総和は最大化された時全体が平衡
などと書き換えられ、これがおそらく「使いやすい」熱力学の形になっている。
何を大事とするかは立場によって異なる。
たとえばLieb Yngvasonの代数的公理に基づく形式は
https://arxiv.org/abs/cond-mat/9708200
で見られる。
ただし、物理の人としてはあまり代数的手法は馴れない。「代数的」手法というのはある意味「操作的」で物理屋に対してはむしろ「実験的」な構成をした方が伝わるということを意図したのだろうか
という本では「実験的」に理論を構築している(と見せかけている)
一方で、代数的ないし実験的公理は実際に「使う」場面で便利とは限らない。というか、数学に不慣れな人が演繹を重ねて使いやすい形式にするよりはあえて最初から計算で便利な形に公理を置き換えてしまうすなわち私が最後に「使いやすい」と称した形式をもう公理にしてしまおうという本が
私も物理学徒で数学を知らないからか、最初は最後の本こそがもっとも数学くさいと思っていたのだけれど、代数という話にわずかに触れてからというもの、実は田崎本の方が数学くさいのではないか、という印象を持つようになった。
清水本では教科書を1,2という分類とA,Bという分類をしている。そのような分類はかなり偏見のある分類で読み手としてはどうでもいいのではないか、と最近は思うようになった。
すなわち代数的か解析的か、という区分けの方が数学不慣れな我々物理学徒にとっては大事なのではないか。そして、数学に不慣れなだけ、それらを自然と結びつけることに苦労を伴う以上、多数の本を読み較べることに価値がある気がしている。