普段何気なく「説明できる」「理解している」などという言葉を使うことはあるだろうが、この手の言葉は本当に難しい言葉だと思う。

例えば炊飯器にはだいたい時計が付いている(どれだけの時間どのような操作をするかなどがプログラムされているのだろう。おそらく)が、その時計がよく遅れがちだったとしようか。

そういう現象を「説明する」術として仮説を立てることができるだろう。

(1)単なる個体差。すなわち、たまたま持っている炊飯器に付いている時計が遅れて動作するような個体差を持っていたにすぎないという説
(2)クォーツの設計温度より高い温度環境にある。これはクォーツというのは時計の時間を計る部品で時計機能を有するものであれば通常はこのクォーツを持っているが、クォーツは温度が高いと遅れがちな傾向がある。炊飯器は常時熱を発するため、平均すれば温度は高い傾向にある。故に、汎用のクォーツを使ったら遅れがちになったという説
(3)電圧(流)不足の説。熱を発する電気釜は消費電力が大きい。したがって特にその動作中、その電気釜動作に電流が集中し、時計部分に出力が不足し、時計動作が正常ではなくなるという説

どれも(一応)説明できる。
しかし、現象としては別個であり、これだけではどれが正しいとか誤りというのは判定できない。
もちろん、詳しい専門家がいれば、この本文には記述していない別の情報を持っているので彼らには判定できる可能性はある。しかし、ここにある情報のみでは、どの説も否定はされない。

したがって、どんな現象においても、(たとえトンチンカンな説だったとしても)「説明できる」というのは「矛盾のない」というくらいのことだろうか。そして、矛盾がない、というのは度々それが真実として伝わってしまうことがある。

似非科学は、与えられている情報(定義などを外部から与えることも「外部からの情報」ということになる。すなわち、定義なども全て似非科学の発信者に依存する)だけであれば少なくとも一つの議論の中では、少なくともそれを唱えているものの中では無矛盾に構成されていうるものである。

宗教の勧誘などもこの類のことはある。
すなわち、無矛盾性をついてそれをさも「真実」にしてくることなのである。

真実ならば無矛盾である

というのはおそらく正しいだろう。(もっとも、全てのものについてなんらかの手法をとることによって論理的に説明できるという前提のもとにおいてだが)
しかし、

無矛盾ならば真実である

というのは否定されるはずのことなのである。
しかしながら、この点について言えば自然科学は

無矛盾なものではあれ、真実であるとは限らない

というべきものであることを我々は認識する必要がある。
例えば物理学において、古典物理学というものがある。
古典物理学はその論理構造として(通常それをuseする限りにおいては少なくとも)無矛盾な構造をしており、しかもそれをあたかも真実のごとく我々は使っているのである。

しかし、近現代物理の発達はそれが「真実ではない」ことを明示した。
つまり、古典物理学は「嘘」である。
それゆえ、高校で学ぶ物理学は敢えて言えば「根底から嘘」である。(全部嘘というのはおそらく違う)

ではなぜ、古典物理学を学ぶのか。
真実ではないものを学ぶのか。

確かに古典物理学は基本的には無矛盾ながら嘘なのだが、
その嘘が実際上の効果を持つにはそれがとても小さいスケール(あるいは高エネルギースケール)である必要があるからだ。

それゆえ、使う領域においては嘘を真実のように利用するのである。
これは世の中、「近似」という。

嘘を教えるなんてとんでもない。
という人がいるが、それは間違いである。

真実を教えるなんてとんでもない。
なぜなら誰も知らないからだ。
我々が教えることができる限界は事実としてわかっている物事と、それに無矛盾な真実らしさを持った「近似」である。

ここで事実と真実という単語を出した。
事実は私のイメージしたものは「実験結果」である。
最初の例であれば、遅れる時計が付いた炊飯器だ。

そして真実とは、その実験結果だけでなく、その結果を招いた本当の原因である。

(1)か(2)か(3)か、はたまたそれ以外か。

答えは用意していない。私にはわからないので。
ただ、(3)というのは私の立てた仮説ではなく、もっと素人の人が立てた仮説だ。
ただしそれでもここではその説明に使った情報は嘘ではない。

我々は真実を追い求めているつもりだろうが、おそらくそうではなく本当は「無矛盾なことを追い求めているだけ」である。すなわち「説明できること」を追い求めているだけだ。

説明できることを追い求めると同時に、説明できない現象が発見されるたびに説明を作る。これを繰り返しているにすぎない。

そうするとやがて次のような問題に行き当たりうる。

すなわち、地球外に文明があったとして、彼らの有する物理学ないし自然科学は我々の自然科学とは根底から異なる論理構造を持っているのではないか

ということである。

これは時間差を考えれば全くその通りということがすぐに証明できる。
すなわち、我々の物理学を遡ればいい。

二千年前なら「アルキメデス」の物理学である。
もはや定量的予言能力さえ持たない。
しかし彼らは哲学者であり、同時にそれは一部では「数学」でもあった。
つまり、論理的無矛盾性をかなり追求していたのである。

数百年前ならニュートン力学ないしその他古典力学である。
定量的予言能力はあるが、量子論特有の事情は全くない。

今は...
量子論をコミにしなければそれを真実とは言えない時代である。

二千年前なら「魔術」という単語で説明を避ける以外に術のなかったことを今の文明は平然とやってのけられる。

では魔術は本当にないのか。

それはわからない。
なぜなら、「説明できないものはないものとする」という前提は勝手においているだけだからだ。

だが、着実に一歩ずつ、魔術の領域は狭まっているわけだ。
ただし、おそらく魔術を科学は否定するのが常である。
もし魔術があるならばそれは我々には論理的に説明を与える術が全くないことである。
であれば、そういう現象を制御できない。
つまるところ、制御するようなことがあるために実験ができ、定量的検証ができるが、それができないのであるから、魔術を込みにした理論は出きえないし、無駄である。認識できるが説明できないという場合も考えうるが、認識されるならばとにかく情報集めがなされ、手を出せそうなところから理論を作ろうとしていくのが常であり、それに対して演繹的に「論理的説明を与えられない」ということを導けない限り、そしてそれはおそらく一部の部分的な意味を除いてほぼ不可能なことで、その限り科学はそれを追い求める(価値を見いだす者が追い求めるだろう)

一方で、制御できるのであれば、それはなんらかの相関があるからこそ制御できるのであり、もはや説明不能ということをどう導くのかである。
おそらく部分的には説明を作りうるだろう。

ただしその意味で熱力学は魔術かもしれないのだが、まあそれはさておき...