物理学がどう役に立つか
小柴昌俊氏はニュートリノ物理学について
「役に立つこと?ないね」
と仰ったのだとか。
まあ、実のところ、直接的に役に立つことはそうも多くはなかろう。
間接的には役に立つことも少なくはないのだが。
間接的に役に立つということは裾野が極めて広い一般論を展開するものや、関連事項の多い、すなわち例えば実験の規模が大きく、複雑で様々な要因の影響を受けるようなものである場合においては「予想外の」役に立つ立ち方を見ることになりやすい。
そもそも、役に立つ事例は、「想定外」の事案が大半だ。
電池、というものがある。
電池は予想外の、文明への寄与が極めて大きかったものの筆頭格だろう。
確かに、電池産業は現在極めて大きいし、リチウムイオン電池は現代の電子機器の多くで使われていて、ハイブリッド車やハイブリッド気動車などでも用いられるなど、裾野は広い。
ただ、その現代の「電池」にしか目がいっていないのであれば、それはあまりにも狭いと言わざるをえない。
電池は電気文明の生みの親と言ってもいい存在である。
なぜか。
電池のない時代、流れる電流は得られなかったのだ。
だから「静電気」を考える程度であった。
確かに、静電気であっても、それを効率的に発生させられる「発電機」はできてはいたのだが、所詮は静電気である。
電池はもとはといえば、ガルバーニが発見した、カエルの足に異種金属の電極を繋いだら足の筋肉が動いた現象に対して、電気が原因であると考えられていたのだが、(静電気でそれを確認できるので、その仮説を立てることは当時でもできる。)、この電気が生じた理屈についてボルタが無機的なものあると考えて異種金属を硫酸にひたすことで再現した実験が同時に発明の瞬間となった、と言われているが、とり出せる電流が桁違いに増えたのだ。
つまり、静電気から定常電流の時代へと移ったのである。
すると電流の特性の研究が盛んに行われることになったのだが、W=VIというワットの公式を思い出して欲しいが、定常電流以前ではIは瞬時に変化し、仮に静電気発電機でたくさん作っても、時間で平均した電流はさしたるものではなかったのでWは決して大きなものではなかったし、しかも人力で回して効率も悪く、あまり優れたものではなかったのだが、電池のできた瞬間、労力なしに大きな仕事を得られるようになったわけだ。
さらに、電気の研究が進めやすくなった。
定常電流というのは時間によって電流が変わらないから測定器にとっては測定しやすい。
実際、測定器は長い時間測定する方が誤差が小さいことが多い。
少なくとも、測定器の動作時刻程度には、定常的な電流が流れないことにはなかなか数値相関を見つけるのは難しいが、それができるようになったのである。
もっとも、測定器がなかった時代でもある。
それはもちろん、何かしらの現象に対する目視あって「発見」になるが、その発見時のその「特異さ」が際立つにはやはり大きなエネルギーが必要だ。
特に、電流が生じさせる磁場は小さい。小さな力しか得られない。大きな、定常電流が欲しいのだ。
すなわち、電池の発明は現象の発見を容易にし、定量的測定も容易にした。
電池のもたらした効果は極めて大きい。
実は静電気は紀元前には発見されていた。
しかし、電池が発明されたのは1800年。
それまでずっと、「静電気」しか研究できない。
1800年、電池が発明された瞬間、飛躍的に発明、発見が相次ぐ。
1860年代にはマクスウェル方程式が完成してしまうほどだ。
マクスウェル方程式は電磁気の基本方程式だ。
マクスウェル方程式は相対性理論の生みの親でもある。
つまり、20世紀最大級の物理革命である相対性理論はマクスウェル方程式を介して、実は電池の発明とつながっているのだ。
そう、相対性理論は電池の発明が間接的にもたらした大発見だった。
量子論はどうか。
こちらは熱学との絡みが大きいのだが、その中に「放射」が重要なウェイトを占めている。
放射はやはり電磁気学の扱う対象でもある。
電池は量子論や相対論といった現代物理の前提知識に大きく波及効果を持っていたのだ。
もちろん、それだけではない。
様々な電気工学の誕生ももちろん、電池のおかげである。
人類文明の「革命」に大きく貢献したのである。
小柴昌俊氏はニュートリノ物理学について
「役に立つこと?ないね」
と仰ったのだとか。
まあ、実のところ、直接的に役に立つことはそうも多くはなかろう。
間接的には役に立つことも少なくはないのだが。
間接的に役に立つということは裾野が極めて広い一般論を展開するものや、関連事項の多い、すなわち例えば実験の規模が大きく、複雑で様々な要因の影響を受けるようなものである場合においては「予想外の」役に立つ立ち方を見ることになりやすい。
そもそも、役に立つ事例は、「想定外」の事案が大半だ。
電池、というものがある。
電池は予想外の、文明への寄与が極めて大きかったものの筆頭格だろう。
確かに、電池産業は現在極めて大きいし、リチウムイオン電池は現代の電子機器の多くで使われていて、ハイブリッド車やハイブリッド気動車などでも用いられるなど、裾野は広い。
ただ、その現代の「電池」にしか目がいっていないのであれば、それはあまりにも狭いと言わざるをえない。
電池は電気文明の生みの親と言ってもいい存在である。
なぜか。
電池のない時代、流れる電流は得られなかったのだ。
だから「静電気」を考える程度であった。
確かに、静電気であっても、それを効率的に発生させられる「発電機」はできてはいたのだが、所詮は静電気である。
電池はもとはといえば、ガルバーニが発見した、カエルの足に異種金属の電極を繋いだら足の筋肉が動いた現象に対して、電気が原因であると考えられていたのだが、(静電気でそれを確認できるので、その仮説を立てることは当時でもできる。)、この電気が生じた理屈についてボルタが無機的なものあると考えて異種金属を硫酸にひたすことで再現した実験が同時に発明の瞬間となった、と言われているが、とり出せる電流が桁違いに増えたのだ。
つまり、静電気から定常電流の時代へと移ったのである。
すると電流の特性の研究が盛んに行われることになったのだが、W=VIというワットの公式を思い出して欲しいが、定常電流以前ではIは瞬時に変化し、仮に静電気発電機でたくさん作っても、時間で平均した電流はさしたるものではなかったのでWは決して大きなものではなかったし、しかも人力で回して効率も悪く、あまり優れたものではなかったのだが、電池のできた瞬間、労力なしに大きな仕事を得られるようになったわけだ。
さらに、電気の研究が進めやすくなった。
定常電流というのは時間によって電流が変わらないから測定器にとっては測定しやすい。
実際、測定器は長い時間測定する方が誤差が小さいことが多い。
少なくとも、測定器の動作時刻程度には、定常的な電流が流れないことにはなかなか数値相関を見つけるのは難しいが、それができるようになったのである。
もっとも、測定器がなかった時代でもある。
それはもちろん、何かしらの現象に対する目視あって「発見」になるが、その発見時のその「特異さ」が際立つにはやはり大きなエネルギーが必要だ。
特に、電流が生じさせる磁場は小さい。小さな力しか得られない。大きな、定常電流が欲しいのだ。
すなわち、電池の発明は現象の発見を容易にし、定量的測定も容易にした。
電池のもたらした効果は極めて大きい。
実は静電気は紀元前には発見されていた。
しかし、電池が発明されたのは1800年。
それまでずっと、「静電気」しか研究できない。
1800年、電池が発明された瞬間、飛躍的に発明、発見が相次ぐ。
1860年代にはマクスウェル方程式が完成してしまうほどだ。
マクスウェル方程式は電磁気の基本方程式だ。
マクスウェル方程式は相対性理論の生みの親でもある。
つまり、20世紀最大級の物理革命である相対性理論はマクスウェル方程式を介して、実は電池の発明とつながっているのだ。
そう、相対性理論は電池の発明が間接的にもたらした大発見だった。
量子論はどうか。
こちらは熱学との絡みが大きいのだが、その中に「放射」が重要なウェイトを占めている。
放射はやはり電磁気学の扱う対象でもある。
電池は量子論や相対論といった現代物理の前提知識に大きく波及効果を持っていたのだ。
もちろん、それだけではない。
様々な電気工学の誕生ももちろん、電池のおかげである。
人類文明の「革命」に大きく貢献したのである。