自然科学、あるいは小中高校では「理科」を見ると大概
「物理」「化学」「生物」「天文」「地学」...
などと分類されている。
理科教育では天文と地学は「地学」に分類されている。
私はどうも、ある程度学習して何かしら「肝」を掴むとその瞬間に何のことはなしに色々と扱えるようになるが、それまでは全く何もできない能なし、という極端さが昔から激しいようで。まあ、何かしらの「原理」の存在を信じてやまない上に、盲信する癖があるようです。かなり色々な害悪を被ってきましたがそれ以外のやり方も知らないし、まあ、仕方ないですね。
キモをなんとなくつかめていた「物理」は高校時代もそこそこ点数がよかったが、「化学」はもう全くと言っていいほど点数が取れず、とある予備校模試で物理の偏差値と化学の偏差値の差を「51.2」開かせて、教官から「同じ理科の時間だからって、苦手科目捨てて受験とかしたらあかんで」などと言われたりする始末でしたが、化学は本当にできないまま受験期を迎えたために「地学」で受験に挑むことになったのです。
まあ、1年目は落ちましたけど、急造の割にはいい点数を取れたので、2年目もう一度化学で挑戦しようと思ってもやっぱり見通しが立たないまま迎えた夏に地学での受験に切り替えて、結果、合格できたのも懐かしいです。
実際のところ、高校化学で越えられなかった壁は大学で熱力学、統計力学、量子力学あたりを学ぶ中で見通しがついてきて、今の方が多分当時よりいい点取れると思います。剛体の回転運動が通常の運動方程式と別個に記述される高校の力学も気持ち悪いものでしたが、高校化学の諸々の気持ち悪さも大学で学んだ結果を見てようやくにしてある程度解消できたといいますか、まあ、そういうところがないと、身につかないのです。
大学に入ってからの環境の変化や、得られた経験はそれ以前と比べて随分と異質で、例えば小中高校の理科の教師の研修会なんかにも参加するような事とかもあって、そこで聞いた話では
「地学は理科から物理、化学、生物を引き抜いた残りだ」
などという表現を聞いたりもしました。それゆえ、見通しの悪い、履修者の少ない科目、というようなことを聞いたような気もします。私にとってはそんな地学の方が受験の時には「テキトーにやっても点数のくる科目」というありがたい地位を持っていてくれて、おかげで大学受験を成功させられたわけですが。
ただ、それは文科省謹製「理科」のお話ではないか、と。
私の中では
「自然科学-化学-生物-...」が「物理」ではないか、と思うのです。
原子物理学という分野がありますが、この中で「エキゾチック原子」なんてものを見れば、とりあえず存在する粒子を使ったらどうなるんだ?という感じがありますが、それは対象を粒子ではなく、「元素」にすれば通常「化学」というジャンルになるでしょう。
原子物理や原子核物理の部分のいくらかは、物理としての特性を持っていないわけではないが、ある種「化学」に近いにおいを感じるし、物性物理などはもろに化学と対象に被りがあるような気がしています。まあ、私の専門からは遠いので何も知りませんが。
そうなった時、物理とは何か、となると、自然科学から化学、生物、...を引き去った残り物、というような性質が強いのではないか、と思ったりします。
ただし、化学屋の人から見るとそうではない気がします。
というのも、原子のダイナミクスそのものや、化学変化のダイナミクスそのものを扱う普遍的なベース理論を作ってるのが、物理で、というような見え方をするのではないか、と。
つまり、その立ち位置はある程度明確化されているように見られているのではないか、と。
それは引き算の「残り物」のスタンスではない。
それはおそらく生物屋にもある程度、思ってもらえるかもしれない。
すると、この差異は何が起こしているのか、という疑問もわいてくるのです。
大学の先輩の方が、このような話をしていたことがあります
「人間なのか人間言語なのか、それは点でしか物事を認識しないな」
すなわち、「物理」「化学」「生物」...という単語はそれぞれある種の「点」のように認識される。
しかし、実際は、面状、立体状に、広がりを持っている。
その広がりの中で、それらの点は曖昧な境界を持っている。
小学校の理科は1科目。中学校では一応「一分野、二分野」という分離がある。
高校では4科目に分割される。
小中学校くらいではおそらく、「自然のお話」なのだろう。
点を与えて分割する意味すら限られている。
高校では一応、分割可能な切れ目があからさまになるくらいには内容を持つ。
しかし、それは古くからの主要なものをややもすると古いままに、つながる間を埋めることなくパッケージ化してしまったものに過ぎなくて、実際はその間が連続していたり、わざわざ異なる分野名や学問名をつけていたりしている、という実態がある。
教育のパッケージそのものを変えることの発想は全く足りていなくて、
単にある程度決まった範囲で内容の入れ替えや追加もしくは削除、しかこの数十年できていないのではないか、という議論も度々聞いてきた。
大学制度ができてから、現在に至るまでにはかなりの時間を経ていて、多くの分野で色々な変化が起きている。たまたま東京大学という、未だに教養重視の制度がとられている大学に入って、その制度を取っている理由として、より新しい、より先端に近い知識を得てからでないと専門を選べないだろう、というようなことを聞いたことがある。
高校の「専門」教育が実態とかけ離れてきて、以前であれば「専門の前段階」というにふさわしかったとしても、今ではさらにその前段階にまで落ちているのではないか、という指摘である。
とはいえ、どうあがいたところで、高校の理科教育を最後に、物理など学ばない、というか、下手したら、「物理」を学ぶことなしに大学生になって、社会へと出て行く人は少なくないのが現実。
しかし、幼い子供が親に尋ねる質問において物理あるいは数学の本質に関わる質問は、殊の外多い。
もちろん、そのまま物理の知識をぶっ放せ、とは思わないけれど、そこでいかにわからぬことをわからぬといい、それでもできる限りの答えを用意し、それができる限り正しいものであれるか、を思えば、基礎物理は本当の意味で「教養」だと思う。
理科教育とは果たしてどうあるべきなのか?
答えのない問題だが、なんとなくでも意識してもらいたい
「物理」「化学」「生物」「天文」「地学」...
などと分類されている。
理科教育では天文と地学は「地学」に分類されている。
私はどうも、ある程度学習して何かしら「肝」を掴むとその瞬間に何のことはなしに色々と扱えるようになるが、それまでは全く何もできない能なし、という極端さが昔から激しいようで。まあ、何かしらの「原理」の存在を信じてやまない上に、盲信する癖があるようです。かなり色々な害悪を被ってきましたがそれ以外のやり方も知らないし、まあ、仕方ないですね。
キモをなんとなくつかめていた「物理」は高校時代もそこそこ点数がよかったが、「化学」はもう全くと言っていいほど点数が取れず、とある予備校模試で物理の偏差値と化学の偏差値の差を「51.2」開かせて、教官から「同じ理科の時間だからって、苦手科目捨てて受験とかしたらあかんで」などと言われたりする始末でしたが、化学は本当にできないまま受験期を迎えたために「地学」で受験に挑むことになったのです。
まあ、1年目は落ちましたけど、急造の割にはいい点数を取れたので、2年目もう一度化学で挑戦しようと思ってもやっぱり見通しが立たないまま迎えた夏に地学での受験に切り替えて、結果、合格できたのも懐かしいです。
実際のところ、高校化学で越えられなかった壁は大学で熱力学、統計力学、量子力学あたりを学ぶ中で見通しがついてきて、今の方が多分当時よりいい点取れると思います。剛体の回転運動が通常の運動方程式と別個に記述される高校の力学も気持ち悪いものでしたが、高校化学の諸々の気持ち悪さも大学で学んだ結果を見てようやくにしてある程度解消できたといいますか、まあ、そういうところがないと、身につかないのです。
大学に入ってからの環境の変化や、得られた経験はそれ以前と比べて随分と異質で、例えば小中高校の理科の教師の研修会なんかにも参加するような事とかもあって、そこで聞いた話では
「地学は理科から物理、化学、生物を引き抜いた残りだ」
などという表現を聞いたりもしました。それゆえ、見通しの悪い、履修者の少ない科目、というようなことを聞いたような気もします。私にとってはそんな地学の方が受験の時には「テキトーにやっても点数のくる科目」というありがたい地位を持っていてくれて、おかげで大学受験を成功させられたわけですが。
ただ、それは文科省謹製「理科」のお話ではないか、と。
私の中では
「自然科学-化学-生物-...」が「物理」ではないか、と思うのです。
原子物理学という分野がありますが、この中で「エキゾチック原子」なんてものを見れば、とりあえず存在する粒子を使ったらどうなるんだ?という感じがありますが、それは対象を粒子ではなく、「元素」にすれば通常「化学」というジャンルになるでしょう。
原子物理や原子核物理の部分のいくらかは、物理としての特性を持っていないわけではないが、ある種「化学」に近いにおいを感じるし、物性物理などはもろに化学と対象に被りがあるような気がしています。まあ、私の専門からは遠いので何も知りませんが。
そうなった時、物理とは何か、となると、自然科学から化学、生物、...を引き去った残り物、というような性質が強いのではないか、と思ったりします。
ただし、化学屋の人から見るとそうではない気がします。
というのも、原子のダイナミクスそのものや、化学変化のダイナミクスそのものを扱う普遍的なベース理論を作ってるのが、物理で、というような見え方をするのではないか、と。
つまり、その立ち位置はある程度明確化されているように見られているのではないか、と。
それは引き算の「残り物」のスタンスではない。
それはおそらく生物屋にもある程度、思ってもらえるかもしれない。
すると、この差異は何が起こしているのか、という疑問もわいてくるのです。
大学の先輩の方が、このような話をしていたことがあります
「人間なのか人間言語なのか、それは点でしか物事を認識しないな」
すなわち、「物理」「化学」「生物」...という単語はそれぞれある種の「点」のように認識される。
しかし、実際は、面状、立体状に、広がりを持っている。
その広がりの中で、それらの点は曖昧な境界を持っている。
小学校の理科は1科目。中学校では一応「一分野、二分野」という分離がある。
高校では4科目に分割される。
小中学校くらいではおそらく、「自然のお話」なのだろう。
点を与えて分割する意味すら限られている。
高校では一応、分割可能な切れ目があからさまになるくらいには内容を持つ。
しかし、それは古くからの主要なものをややもすると古いままに、つながる間を埋めることなくパッケージ化してしまったものに過ぎなくて、実際はその間が連続していたり、わざわざ異なる分野名や学問名をつけていたりしている、という実態がある。
教育のパッケージそのものを変えることの発想は全く足りていなくて、
単にある程度決まった範囲で内容の入れ替えや追加もしくは削除、しかこの数十年できていないのではないか、という議論も度々聞いてきた。
大学制度ができてから、現在に至るまでにはかなりの時間を経ていて、多くの分野で色々な変化が起きている。たまたま東京大学という、未だに教養重視の制度がとられている大学に入って、その制度を取っている理由として、より新しい、より先端に近い知識を得てからでないと専門を選べないだろう、というようなことを聞いたことがある。
高校の「専門」教育が実態とかけ離れてきて、以前であれば「専門の前段階」というにふさわしかったとしても、今ではさらにその前段階にまで落ちているのではないか、という指摘である。
とはいえ、どうあがいたところで、高校の理科教育を最後に、物理など学ばない、というか、下手したら、「物理」を学ぶことなしに大学生になって、社会へと出て行く人は少なくないのが現実。
しかし、幼い子供が親に尋ねる質問において物理あるいは数学の本質に関わる質問は、殊の外多い。
もちろん、そのまま物理の知識をぶっ放せ、とは思わないけれど、そこでいかにわからぬことをわからぬといい、それでもできる限りの答えを用意し、それができる限り正しいものであれるか、を思えば、基礎物理は本当の意味で「教養」だと思う。
理科教育とは果たしてどうあるべきなのか?
答えのない問題だが、なんとなくでも意識してもらいたい