水にせよ、空気にせよ、その存在は連続的で、なめらかだというか、そのある種の領域を占領しているのであって、まさか粒があって粒の間が空洞、とでもいうような描像を初めて見た時から想像する人はそんなにいないだろう。
実際、水などは例えばコップに分けて入れても、それぞれを別個に物理的性質を考えられるように、物理でも、仮想的に空間上でマスを考えて、その全てのマスで各々温度や速度などの物理量を考える考え方を採用し、このマス目をとても小さくして「連続関数」という性質のいい関数で考えるようにするやり方が存在している。
しかし、現実は原子分子モデルであり、気体などで見ればほとんどのところはその原子やら分子がない、スカスカ、ということを学校で習う。この2つはどうつながるのだろうか。
物事を考える時、細かい事情まで丁寧に組み込んだ方が、より正しく計算できるだろう、というのは正しい発想だろう。物理理論で考える時はもちろん細かいところの世界をちゃんと組み入れた理論を構築する方が、正しいと考えられる。
ところが、細かい事情を見すぎると欲しい結果を得るための計算が不可能になってしまう。
そのために、水や空気などを考える時、原子スケールまで細かく見るのは避けることが多い。
原子論が指すのは、「コップに分けて入れて」も、性質が同じであるというのがどこまでも繰り返しできるわけではないことを言っているのだが、ある程度まで細かくできてしまえば、もうそれはどこまでも細かく見ているのと扱いとして同じにしていいだろう、という数学を楽にする便法で、ある程度の限度を「無限小」と読み替えることを考える。
これよりも細かく考えると、「原子」の性質が、つまり、「粒」の性質が露骨に出てくるから、それより細かく見るのはやめておいて、その限界を「無限小」と読み替える、という操作になる。もちろん近似だが、目に見るよりはるかに小さなところまで細かくできるのだし、誤差よりちいさく切れるなら、どこまでもできるだろう、というのは物理としてはよくやる便法である。
この操作、「粗視化」という。
粗視化は「流体力学」や「弾性体力学」と呼ばれる分野の基本的な発想である。
いずれにせよ、「粗視化」によって本来つぶつぶがあらわに出てくるはずの世界で「連続関数」を使うことが許される、というものだ。
しかし、原子を扱うとどうも本当の点ではないことがわかる。そして、素粒子を考える時も、完全な点で考えること自体は悪くはないのだが、そういう素粒子がタダで存在しているわけではなく、時空点を変数に持つ関数である「場」を背景に持っていて、この連続関数である「場」は現象を見ると「粒子」として現れる、という現象を見ているのだ、と。
微視化して作った理論はやっぱり最後は連続関数なのだ、という。
かたや近似で遠目に見た時、かたや、どこまでも細かく見た時のピクチャーがどちらも連続関数という技法で扱われる。
どちらへ移っても、時空点を変数に持つ関数に強い意味が見出される。関数の種類は全く違うが、面白い構図だと思う。
実際、水などは例えばコップに分けて入れても、それぞれを別個に物理的性質を考えられるように、物理でも、仮想的に空間上でマスを考えて、その全てのマスで各々温度や速度などの物理量を考える考え方を採用し、このマス目をとても小さくして「連続関数」という性質のいい関数で考えるようにするやり方が存在している。
しかし、現実は原子分子モデルであり、気体などで見ればほとんどのところはその原子やら分子がない、スカスカ、ということを学校で習う。この2つはどうつながるのだろうか。
物事を考える時、細かい事情まで丁寧に組み込んだ方が、より正しく計算できるだろう、というのは正しい発想だろう。物理理論で考える時はもちろん細かいところの世界をちゃんと組み入れた理論を構築する方が、正しいと考えられる。
ところが、細かい事情を見すぎると欲しい結果を得るための計算が不可能になってしまう。
そのために、水や空気などを考える時、原子スケールまで細かく見るのは避けることが多い。
原子論が指すのは、「コップに分けて入れて」も、性質が同じであるというのがどこまでも繰り返しできるわけではないことを言っているのだが、ある程度まで細かくできてしまえば、もうそれはどこまでも細かく見ているのと扱いとして同じにしていいだろう、という数学を楽にする便法で、ある程度の限度を「無限小」と読み替えることを考える。
これよりも細かく考えると、「原子」の性質が、つまり、「粒」の性質が露骨に出てくるから、それより細かく見るのはやめておいて、その限界を「無限小」と読み替える、という操作になる。もちろん近似だが、目に見るよりはるかに小さなところまで細かくできるのだし、誤差よりちいさく切れるなら、どこまでもできるだろう、というのは物理としてはよくやる便法である。
この操作、「粗視化」という。
粗視化は「流体力学」や「弾性体力学」と呼ばれる分野の基本的な発想である。
いずれにせよ、「粗視化」によって本来つぶつぶがあらわに出てくるはずの世界で「連続関数」を使うことが許される、というものだ。
しかし、原子を扱うとどうも本当の点ではないことがわかる。そして、素粒子を考える時も、完全な点で考えること自体は悪くはないのだが、そういう素粒子がタダで存在しているわけではなく、時空点を変数に持つ関数である「場」を背景に持っていて、この連続関数である「場」は現象を見ると「粒子」として現れる、という現象を見ているのだ、と。
微視化して作った理論はやっぱり最後は連続関数なのだ、という。
かたや近似で遠目に見た時、かたや、どこまでも細かく見た時のピクチャーがどちらも連続関数という技法で扱われる。
どちらへ移っても、時空点を変数に持つ関数に強い意味が見出される。関数の種類は全く違うが、面白い構図だと思う。