ふと、縦書き物理を思い出した。縦書き物理というのは、数式等を使わずに物理を紹介する一般向け啓蒙書のことだが、それは本質を伝えきれないが、ある程度持っておいて損はない教養である。
縦書き物理でよく話題になるのは相対論と量子論、というのはもうずっとお決まりパターンなのだが、やっぱりその二つは難しいからそれを伝えようとする。
と、いうのも通説だと思うけれど、それはいくらか間違いである。
というよりかは、相対論と量子論を語るのは、
「現時点において物理学で最も正しい大前提となる知識であるから」
である。
少なくとも
「ニュートン理論を含めたあらゆる理論のうちで最良の理論が相対論と量子論」
ということである。
ちょっとだけ書いてみようか、と。
一般に、物理が扱う対象と、それに対応して使うべき理論を述べる。
まず、「相対論的」と「非相対論的」という区分がある。
前者の方が計算が複雑になることが多いため、できれば非相対論的理論を使って計算したいが、世の中で本当に正しいのは「相対論的」な理論である。従って、非相対論的理論を使っていいかどうか、という目安があると、効率よく、どちらで計算するべきかがわかる。
もう一方の尺度で「量子論」と「古典論」がある。
こちらも正しいのは量子論なのだが、量子論は欲しい結果を得るためにいくらか複雑な処置を施す必要がある。故に、古典論を使えるといい。もちろん、ある種の目安を持って、古典論を使っても妥当な結果が得られるかを比較できるので、古典論を使っていいかどうかの目安を知っておくといいわけだ。
ところで相対論というと通常はそれを前提とした古典理論を指し、従って、その修正を云々、と書かれるが、
相対論というものは「時空の幾何的扱い方」すなわち、「ユークリッド幾何学」の拡張と思っておいてほしい。
古い理論ではそれをニュートン力学の修正のための前提として使い、相対論的力学というものが構築される。
その相対論的力学ではエネルギーと運動量が修正され、
E^2=m^2c^4+p^2c^2
という関係が導かれる。例の「E=mc^2」はこのうちの最初の項を平方根をとったものだ。ここでmは質量、cは光速度、pは運動量である。ただし、運動量はmvではない。pの定義はややこしいが、速度をvとして
v=∂E/∂p
となるように、pを定義しておく。
ニュートンの理論というのはm^2c4>>p^2c^2の時に正しい理論となる。だからこそ、前の項を抜き取ってきて、わざわざスローガンのようにしてしまったのだ。従って、「相対論らしさ」が出てくるには、逆にp^2c^2がm^2c^4に近づいたときである。これを特徴付けるために、√(p^2c^2/m^2c^4)=p/mcをκと表すことにしよう。κが1に比べて十分小さいとニュートン理論で近似してもいいし、1や、それよりも大きな値になってきたときには相対論を使ってあげないといけない。
一方の量子論は、位置と運動量など、同時に値を確定できないパラメータが存在しているということを教えてくれる。この時、その「不確定」な幅について位置と運動量であれば、
△x△p>h
というのが量子論の指し示すところである。
不等式なのはなぜか。つまるところ、「最大限、位置も運動量も確定させようと頑張るとしても」△xと△pの積をプランク定数hより小さくすることはできないよ、ということである。それは最終的には、
△x△p=h程度で見積もられる範囲で、測定する量と対になる物理量が、本質的に「バラツキ得る」という意味も持っている。つまり、単なる測定技術の限界を示しているだけでなく、世の本質がわざわざこの数値をばらつかせてくれる、と思ってくれればいい。それゆえに、どうあがいても、この範囲ではばらついてしまうわけだ。
その最大限どの数値を実測したのかよ?
と思うかもしれないが、そういうわけではない。ある種の理論的操作の帰結として、そう解釈するべきパラメータの決定方法が決まり、その結果に過ぎない。
その内実が気になるんだよ!と思う人は例えば
量子論の基礎―その本質のやさしい理解のために (新物理学ライブラリ)/サイエンス社

¥2,160
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あたりの教科書を手に取れ、という話だ。
さて、実際の物理の世界では△xや△pはけたたましく大きい。普通の定規で長さを測ったら1mmより小さい範囲に目盛りがないわけだから、せいぜい0.1mmの精度で測れればいい方だ。
故に、小学校以来はかってきた長さは本当は誤差つきの値で、我々はその誤差をちゃんとx±△xなどとメモしておかないといけないのだ。
もっとも、△の評価なんてどうするんだよと思うだろう。量子論の場合のその評価の意味合いは
「同じ状態を測定した時に取った値のバラツキ(標準偏差)程度」とでも思ってくれればいい。実際、量子論の基礎でも読んでくれれば、それがわかるだろう。
hは10^-34である。つまり、0.00...と0を34個並べてようやく1けた目を見ることができる。とても小さい値だ。故に、我々の通常の測定技術ではh/(△x△p)<<1となる。
よって、今h/(△x△p)=μとでも置いておけば、μが十分小さい時は量子論くさい、と思っておけばいい。
この二つを使ってあげると、よく見る現象で「非相対論近似」あるいは「古典論」を許してもらえるか否かが判定できる。
1.原子を考える時は古典論ではダメだが、非相対論で良い
原子というものは10^-15mくらいの大きさの「原子核」の周り、半径が10^-10mくらいのところに電子がある。そして原子核は電子に比べて極めて重く、従って運動しているのは電子で、現象に反映されるのは電子の運動状態である。
従って、電子について考えればいい。
まず、半径が10^-10mのところに「電子がある」と述べた。ここでラザフォードモデルみたいなものを知っている人だともっとちゃんとした「つぶ」があると思っているのだろうが、そうではない。量子論では、「大体その範囲で収まっている」に過ぎない。それをちゃんと示すにはシュレディンガー方程式を立ててエネルギー固有状態を調べなくてはいけないが、通常原子を見るときはその「エネルギー状態」を気にするので、それが不確定になるような、位置を決定させることはしない。あれ、運動量と位置が不確定だったのでは?と思うかもしれないが、それは「明確な不確定性が決まるのが」その二つなのであって、エネルギーとの間だって、不確定だ。
従って、電子の位置の不確定性は10^-10mである。それが原点周りにあるのである。そう見てあげないことには、原子が「基底状態」か「励起状態」かを見てあげられず、つまり、位置を無理やり決めたために、変な原子になってしまうかもしれないのだ。
ということは△pはというと...
いや、よくよく考えて欲しい。今置かれている状況は電子が原子の中心の半径△x=10^-10mの範囲に収まっている、というもので、つまり、中心に止め置かれている。ということは、古典的な意味を思えば、pの期待値はつまり速度の期待値のようなものは0に成るだろうさ。
ということはだ、相対論の時を思い出そう。mc^2とpcを比較しろ、と言っているのだ。
しかし、pは期待値は0、だが、△p程度までの間ではぶれるから、その程度までちゃんと見てあげて、全体的に「相対論的でなくても大丈夫?」と考えてあげないと、時々か、あるいは、ほとんどの場合に相対論的に考えないといけない可能性が出てしまう。
だから目安として(△p)cをmc^2と比較する。
こんなことをしたのはhやcの値が使いにくいからだ。
物理屋は嫌なのでhcという掛け算を2πx197MeVfmと覚えている。(2πがあるのは本来hではなくhバーを使うからなのだが、タイプできない都合である。)
そしてMeVだのfmだの、変な単位が出てきた、と思っているだろう。MeVとはエネルギーの単位だ。電子の質量にc^2をかけると電子質量に対応するエネルギーが出てくるが、これは511KeVである。fmは10^-15mの事である。
故にだ、量子論の結論的には、
△pc=hc/△x=2πx1.97 KeV
である。
これが511keVに対してこれは十分に小さい。よって、相対論はいらない。もっとも、ここでいうのは「運動」に関するもので、他の特性で相対論由来のものが実はあるのだが、そういうものは「付け足して」考えればいい。
あ、で運動量を出すためにμ=1を使っちゃった。
実際、運動量のバラツキが質量511keVに対して10keVにも及ぶ運動量があり、これは速度的には光速度の1/50にも及ぶバラツキである。こんなスピードを測定できないと思うなよ、というわけだ。もっといい精度を目指せるよ、というわけだ。まあまあ、それ以上の精度にすると位置の精度が悪くなるから控えてくれ。
そう、それゆえ、量子論は必要なのだ。
2.原子核を考えるには相対論が必要だ。
原子核の場合は、原子核のサイズがfmスケールであるから、原子核の構造を知るにはより小さなスケールで測定できなくてはならない。ゆえに、1fmの誤差ではちょっと足りない。もう少し頑張って、0.1fmくらいにしよう。そうすると、
(△p)c=1970MeVである。
陽子質量に対応するエネルギーは937MeVなので、そう、普通に大体同じ桁なのだ。
よって、原子核を判断するには相対論が必要だし、量子論はそれがなければ話にならない状況になってくる。
3.SFものの宇宙船を考えるには量子論は必要ないが、相対論は必要だ。
エネルギー運動量で比較するのは難しいが、速度を光速度と比較すれば実は良い。
きわめていい加減だが、ニュートン理論での運動量p=mvを使えば、mc^2とpc=mvcを比較しているのだから、cとvがどうか、を見ればいいというのは見当がつくだろう。
v/cをβと表すことが多い。物理屋はβが1から十分小さい時はニュートン理論を使っていいが、そうでない時は相対論を使う基準としてよく使う。
さて、量子論を使う必要はあるだろうか。正直に言おう。ない。
なぜなら、宇宙船の1/10000のオーダーで見積もるとして、宇宙船と人間が大体同じスケールだったとしても、△xは0.1mm。△pを10^-30(kg・m/s)で見積もれるというが、どうあがいても無理です。質量をそんな精度よく測ることがまず無理で、せいぜい5桁。それだけで確実にアウトなのだ。しかもそれは宇宙船に人が乗り込んでるかどうかなどを一切考えていない。人が乗り込んだら質量が普通にパーセントの割合で変わるだろうし、それで動作が変わるようではまともな宇宙船とは言えない。我々は設計者に文句を言わねばならない。
よって、SFものの宇宙船は量子論を考える必要はない(というか、ないようにしないと宇宙船としてまともに動作しない。)
さてとまあ、こういうスケール比較技術はそこそこ普通の人たち向けに書かれているわけです。
そして、スケール比較技術を教えたおかげで「じゃあ相対論だね」「じゃあ量子論だね」と言って、それを道具にしたお話の始まり始まり、となるのですが、スケール比較は「相対論の結果」ならびに「量子論の結果」を引用してきたものに過ぎない。
つまり、「相対論」ならびに「量子論」という読み物の端切れの結果を引っ張ってきたに過ぎない。
もちろん、本質を突いているからやたらと持ってくるのだが、縦書き物理は常に、「結果」を引用して、その解釈を教えてくれるだけで、その内容は教えてくれない。
スケール比較技術を知ったら、次に扱いたい問題のスケールを確認する。それがどうも相対論くさそうだったら、相対論を勉強しなくてはいけないのだし、量子論くさかったら量子論を勉強しないといけない。
なぜか。
実験値の精度が悪かった古い理論では
y=ax
となっていたとしても、それを精密に測定し、それによって理論の修正が求められたとしよう。
その結果として例えば
y=ax(1+e^(-kx))
となっていたとする。このように何かしら変化が加わることは少なくない。全く異なる関数がそのズレを表現する場合であっても、これから述べることは共通なので続けてみてほしい。
実は、今自分たちが「スケール比較」で考えていた値というのは「kx」あるいは1/kxだ。
このe^-kxは新しい理論で初めて導入された「ズレ」部分だが、それが有効なのはkxがせいぜい1までの範囲で、それよりも大きくなるとほとんど0になって、測定誤差に隠されてしまう。
xには長さや質量、運動量などが入るが、eの指数の上に乗るには無次元でなくてはならない。どういうことかというと、単位の取り方によってはいけないということだ。
それゆえ、次元を潰す定数が必要なのである。
量子論はその定数をhというものとして現れてくる、その現れ方は測定値の誤差の形である、という理論で、
相対論はその定数をcという形で現れてくるもので、これは光速度だ、という理論だ。
ニュートン以前の理論は、スケールとして取るべき基本定数が自然依存なものではなかった。つまり、そのようなものを見出すことができなかったのだ。それゆえ、テキトーもとい、人間中心主義的に作ることができた。
しかし、その限界が現れたのが量子論や相対論なのである。
もっとも、我々は実はもっとはるか昔にある意味で「限界」を見つけて、それに対応する「理論」を作ったことがある。通常我々はそれを「数学」と呼んでしまうが、「幾何学」はれっきとした、この「空間」の性質である。三角形の長さの取り方が三辺共自由とはいかない、という。まあ、「直線で構成されている」という前提あってだが。ただ、直線という制限を加えてなお、自由であってもいいかもしれないが、それが許されていないのだ。そういう「限界」を大昔に見つけていたのだ。ある意味で私は物理だと思う。いや、それは極論かもしれない。まあ、確かに幾何学は数学なのだが、それで得られる数値を我々が実際の場面で「使う」のは物理の世界だ。それを実測したり、それを誰かに伝えたり、それを元に誰かが何を意味しているかを解釈することは。
ただ、あまりに日常すぎて、その部分をいちいち「物理」と言わないだけだ。
ニュートンはそれゆえに、素朴な「長さ」についてその「幾何学」の知識を最大限に活用した。だが、限界に行き着いた。新しい限界を。それを相対性理論と言ったり、量子論という。
それらは今まで無制限に自由だと思っていたものをスケールの取り方と関係する定数cとhという2つを伴って、ある種制限を教えてくれている。
量子論と相対論はある意味で、より一般的な物理の形式やより一般的な幾何学に過ぎない。
三平方の定理がことごとく常識であるのと同じように、ローレンツ変換は(cdt)^2-(dl)^2=一定なのである。
それを知らなくて済むところは教えないが、必要なところでは教えることになる。
物事を考える上で相対論が必要そうになったら、縦書きを離れて相対論の教科書を、また、量子論が必要そうなら、量子論の教科書を手に取ることが良いかもしれない。技術的に欲しいものを色々と書いてくれている本は
力学・場の理論―ランダウ=リフシッツ物理学小教程 (ちくま学芸文庫)/筑摩書房

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が整然としているでしょうか。
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である。
少なくとも
「ニュートン理論を含めたあらゆる理論のうちで最良の理論が相対論と量子論」
ということである。
ちょっとだけ書いてみようか、と。
一般に、物理が扱う対象と、それに対応して使うべき理論を述べる。
まず、「相対論的」と「非相対論的」という区分がある。
前者の方が計算が複雑になることが多いため、できれば非相対論的理論を使って計算したいが、世の中で本当に正しいのは「相対論的」な理論である。従って、非相対論的理論を使っていいかどうか、という目安があると、効率よく、どちらで計算するべきかがわかる。
もう一方の尺度で「量子論」と「古典論」がある。
こちらも正しいのは量子論なのだが、量子論は欲しい結果を得るためにいくらか複雑な処置を施す必要がある。故に、古典論を使えるといい。もちろん、ある種の目安を持って、古典論を使っても妥当な結果が得られるかを比較できるので、古典論を使っていいかどうかの目安を知っておくといいわけだ。
ところで相対論というと通常はそれを前提とした古典理論を指し、従って、その修正を云々、と書かれるが、
相対論というものは「時空の幾何的扱い方」すなわち、「ユークリッド幾何学」の拡張と思っておいてほしい。
古い理論ではそれをニュートン力学の修正のための前提として使い、相対論的力学というものが構築される。
その相対論的力学ではエネルギーと運動量が修正され、
E^2=m^2c^4+p^2c^2
という関係が導かれる。例の「E=mc^2」はこのうちの最初の項を平方根をとったものだ。ここでmは質量、cは光速度、pは運動量である。ただし、運動量はmvではない。pの定義はややこしいが、速度をvとして
v=∂E/∂p
となるように、pを定義しておく。
ニュートンの理論というのはm^2c4>>p^2c^2の時に正しい理論となる。だからこそ、前の項を抜き取ってきて、わざわざスローガンのようにしてしまったのだ。従って、「相対論らしさ」が出てくるには、逆にp^2c^2がm^2c^4に近づいたときである。これを特徴付けるために、√(p^2c^2/m^2c^4)=p/mcをκと表すことにしよう。κが1に比べて十分小さいとニュートン理論で近似してもいいし、1や、それよりも大きな値になってきたときには相対論を使ってあげないといけない。
一方の量子論は、位置と運動量など、同時に値を確定できないパラメータが存在しているということを教えてくれる。この時、その「不確定」な幅について位置と運動量であれば、
△x△p>h
というのが量子論の指し示すところである。
不等式なのはなぜか。つまるところ、「最大限、位置も運動量も確定させようと頑張るとしても」△xと△pの積をプランク定数hより小さくすることはできないよ、ということである。それは最終的には、
△x△p=h程度で見積もられる範囲で、測定する量と対になる物理量が、本質的に「バラツキ得る」という意味も持っている。つまり、単なる測定技術の限界を示しているだけでなく、世の本質がわざわざこの数値をばらつかせてくれる、と思ってくれればいい。それゆえに、どうあがいても、この範囲ではばらついてしまうわけだ。
その最大限どの数値を実測したのかよ?
と思うかもしれないが、そういうわけではない。ある種の理論的操作の帰結として、そう解釈するべきパラメータの決定方法が決まり、その結果に過ぎない。
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あたりの教科書を手に取れ、という話だ。
さて、実際の物理の世界では△xや△pはけたたましく大きい。普通の定規で長さを測ったら1mmより小さい範囲に目盛りがないわけだから、せいぜい0.1mmの精度で測れればいい方だ。
故に、小学校以来はかってきた長さは本当は誤差つきの値で、我々はその誤差をちゃんとx±△xなどとメモしておかないといけないのだ。
もっとも、△の評価なんてどうするんだよと思うだろう。量子論の場合のその評価の意味合いは
「同じ状態を測定した時に取った値のバラツキ(標準偏差)程度」とでも思ってくれればいい。実際、量子論の基礎でも読んでくれれば、それがわかるだろう。
hは10^-34である。つまり、0.00...と0を34個並べてようやく1けた目を見ることができる。とても小さい値だ。故に、我々の通常の測定技術ではh/(△x△p)<<1となる。
よって、今h/(△x△p)=μとでも置いておけば、μが十分小さい時は量子論くさい、と思っておけばいい。
この二つを使ってあげると、よく見る現象で「非相対論近似」あるいは「古典論」を許してもらえるか否かが判定できる。
1.原子を考える時は古典論ではダメだが、非相対論で良い
原子というものは10^-15mくらいの大きさの「原子核」の周り、半径が10^-10mくらいのところに電子がある。そして原子核は電子に比べて極めて重く、従って運動しているのは電子で、現象に反映されるのは電子の運動状態である。
従って、電子について考えればいい。
まず、半径が10^-10mのところに「電子がある」と述べた。ここでラザフォードモデルみたいなものを知っている人だともっとちゃんとした「つぶ」があると思っているのだろうが、そうではない。量子論では、「大体その範囲で収まっている」に過ぎない。それをちゃんと示すにはシュレディンガー方程式を立ててエネルギー固有状態を調べなくてはいけないが、通常原子を見るときはその「エネルギー状態」を気にするので、それが不確定になるような、位置を決定させることはしない。あれ、運動量と位置が不確定だったのでは?と思うかもしれないが、それは「明確な不確定性が決まるのが」その二つなのであって、エネルギーとの間だって、不確定だ。
従って、電子の位置の不確定性は10^-10mである。それが原点周りにあるのである。そう見てあげないことには、原子が「基底状態」か「励起状態」かを見てあげられず、つまり、位置を無理やり決めたために、変な原子になってしまうかもしれないのだ。
ということは△pはというと...
いや、よくよく考えて欲しい。今置かれている状況は電子が原子の中心の半径△x=10^-10mの範囲に収まっている、というもので、つまり、中心に止め置かれている。ということは、古典的な意味を思えば、pの期待値はつまり速度の期待値のようなものは0に成るだろうさ。
ということはだ、相対論の時を思い出そう。mc^2とpcを比較しろ、と言っているのだ。
しかし、pは期待値は0、だが、△p程度までの間ではぶれるから、その程度までちゃんと見てあげて、全体的に「相対論的でなくても大丈夫?」と考えてあげないと、時々か、あるいは、ほとんどの場合に相対論的に考えないといけない可能性が出てしまう。
だから目安として(△p)cをmc^2と比較する。
こんなことをしたのはhやcの値が使いにくいからだ。
物理屋は嫌なのでhcという掛け算を2πx197MeVfmと覚えている。(2πがあるのは本来hではなくhバーを使うからなのだが、タイプできない都合である。)
そしてMeVだのfmだの、変な単位が出てきた、と思っているだろう。MeVとはエネルギーの単位だ。電子の質量にc^2をかけると電子質量に対応するエネルギーが出てくるが、これは511KeVである。fmは10^-15mの事である。
故にだ、量子論の結論的には、
△pc=hc/△x=2πx1.97 KeV
である。
これが511keVに対してこれは十分に小さい。よって、相対論はいらない。もっとも、ここでいうのは「運動」に関するもので、他の特性で相対論由来のものが実はあるのだが、そういうものは「付け足して」考えればいい。
あ、で運動量を出すためにμ=1を使っちゃった。
実際、運動量のバラツキが質量511keVに対して10keVにも及ぶ運動量があり、これは速度的には光速度の1/50にも及ぶバラツキである。こんなスピードを測定できないと思うなよ、というわけだ。もっといい精度を目指せるよ、というわけだ。まあまあ、それ以上の精度にすると位置の精度が悪くなるから控えてくれ。
そう、それゆえ、量子論は必要なのだ。
2.原子核を考えるには相対論が必要だ。
原子核の場合は、原子核のサイズがfmスケールであるから、原子核の構造を知るにはより小さなスケールで測定できなくてはならない。ゆえに、1fmの誤差ではちょっと足りない。もう少し頑張って、0.1fmくらいにしよう。そうすると、
(△p)c=1970MeVである。
陽子質量に対応するエネルギーは937MeVなので、そう、普通に大体同じ桁なのだ。
よって、原子核を判断するには相対論が必要だし、量子論はそれがなければ話にならない状況になってくる。
3.SFものの宇宙船を考えるには量子論は必要ないが、相対論は必要だ。
エネルギー運動量で比較するのは難しいが、速度を光速度と比較すれば実は良い。
きわめていい加減だが、ニュートン理論での運動量p=mvを使えば、mc^2とpc=mvcを比較しているのだから、cとvがどうか、を見ればいいというのは見当がつくだろう。
v/cをβと表すことが多い。物理屋はβが1から十分小さい時はニュートン理論を使っていいが、そうでない時は相対論を使う基準としてよく使う。
さて、量子論を使う必要はあるだろうか。正直に言おう。ない。
なぜなら、宇宙船の1/10000のオーダーで見積もるとして、宇宙船と人間が大体同じスケールだったとしても、△xは0.1mm。△pを10^-30(kg・m/s)で見積もれるというが、どうあがいても無理です。質量をそんな精度よく測ることがまず無理で、せいぜい5桁。それだけで確実にアウトなのだ。しかもそれは宇宙船に人が乗り込んでるかどうかなどを一切考えていない。人が乗り込んだら質量が普通にパーセントの割合で変わるだろうし、それで動作が変わるようではまともな宇宙船とは言えない。我々は設計者に文句を言わねばならない。
よって、SFものの宇宙船は量子論を考える必要はない(というか、ないようにしないと宇宙船としてまともに動作しない。)
さてとまあ、こういうスケール比較技術はそこそこ普通の人たち向けに書かれているわけです。
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つまり、「相対論」ならびに「量子論」という読み物の端切れの結果を引っ張ってきたに過ぎない。
もちろん、本質を突いているからやたらと持ってくるのだが、縦書き物理は常に、「結果」を引用して、その解釈を教えてくれるだけで、その内容は教えてくれない。
スケール比較技術を知ったら、次に扱いたい問題のスケールを確認する。それがどうも相対論くさそうだったら、相対論を勉強しなくてはいけないのだし、量子論くさかったら量子論を勉強しないといけない。
なぜか。
実験値の精度が悪かった古い理論では
y=ax
となっていたとしても、それを精密に測定し、それによって理論の修正が求められたとしよう。
その結果として例えば
y=ax(1+e^(-kx))
となっていたとする。このように何かしら変化が加わることは少なくない。全く異なる関数がそのズレを表現する場合であっても、これから述べることは共通なので続けてみてほしい。
実は、今自分たちが「スケール比較」で考えていた値というのは「kx」あるいは1/kxだ。
このe^-kxは新しい理論で初めて導入された「ズレ」部分だが、それが有効なのはkxがせいぜい1までの範囲で、それよりも大きくなるとほとんど0になって、測定誤差に隠されてしまう。
xには長さや質量、運動量などが入るが、eの指数の上に乗るには無次元でなくてはならない。どういうことかというと、単位の取り方によってはいけないということだ。
それゆえ、次元を潰す定数が必要なのである。
量子論はその定数をhというものとして現れてくる、その現れ方は測定値の誤差の形である、という理論で、
相対論はその定数をcという形で現れてくるもので、これは光速度だ、という理論だ。
ニュートン以前の理論は、スケールとして取るべき基本定数が自然依存なものではなかった。つまり、そのようなものを見出すことができなかったのだ。それゆえ、テキトーもとい、人間中心主義的に作ることができた。
しかし、その限界が現れたのが量子論や相対論なのである。
もっとも、我々は実はもっとはるか昔にある意味で「限界」を見つけて、それに対応する「理論」を作ったことがある。通常我々はそれを「数学」と呼んでしまうが、「幾何学」はれっきとした、この「空間」の性質である。三角形の長さの取り方が三辺共自由とはいかない、という。まあ、「直線で構成されている」という前提あってだが。ただ、直線という制限を加えてなお、自由であってもいいかもしれないが、それが許されていないのだ。そういう「限界」を大昔に見つけていたのだ。ある意味で私は物理だと思う。いや、それは極論かもしれない。まあ、確かに幾何学は数学なのだが、それで得られる数値を我々が実際の場面で「使う」のは物理の世界だ。それを実測したり、それを誰かに伝えたり、それを元に誰かが何を意味しているかを解釈することは。
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それらは今まで無制限に自由だと思っていたものをスケールの取り方と関係する定数cとhという2つを伴って、ある種制限を教えてくれている。
量子論と相対論はある意味で、より一般的な物理の形式やより一般的な幾何学に過ぎない。
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が整然としているでしょうか。