物理学が共通の言語としてきた数学という枠組みについても、学習が必要で、これの学習やその数学がどういうものなのか、ということもちゃんと扱わないと本当は物理の学習の順序は語れないだろう。
さて、その中で物理の学習順序の話をしよう。
歴史的には古いものは人間感覚的であるというか、人間社会人間言語に応じて作られている。新しいものほど、専門概念が出てくるが、それ自体の本来の意味はちゃんと学習しないとわからないようになっている。
それはいろいろな理由があるが、基礎論という意味では、子供なら気にしても大人では気にしないような「馴れ」あるいは理由を問うても出てこないがなぜかうまくいく「公理」を新しいものほど非直感的というか、少なくとも人間の生きてきたところの「馴れ」からは遠くなるようにできている。というか「言い換え」「改変」を重ねているからだ。新しい着眼点を加えたり、それらをフォーカスしながら、歴史はそれを作ってきた。
つまるところ、歴史の古いものほどわかりやすい気がするのだが、その理由は、生きる上で作ってきた技術に素直だからだ、という辺りだろう。と私は思う。量子論はその辺り全く直感的ではないかもしれない。
しかし、そういう新しい理論が前提とした問題提起を理解しておいたほうが、本当の意味で古いフォーマリズムを理解できるだろうし、そういうフォーマリズムの学習だったら本当はどの形式からやっても大した差はないのではないか、と。少なくとも、問題提起をしなければ人間というのは「自明」と考えるが、問題提起をされると途端に「非自明」と思う生き物らしい。非自明でも正しいことを論理的に導ければいいが、そうでない場合我々はそれを公理としておかざるをえない時もある。量子論はその点、全くもって公理としてかなりいろいろ置いてあることを明示的に学習できる。
だから、実は量子論からやってもいいのではないか、とも思う。
もちろん、歴史に沿った学習をしないと専門化は上の学年で、なる一般的な形式には対応できないのだが、専門化というのは基礎論の上にある技術的な、応用をやるという場合には限らない。
現に、量子論は古典論がなくてもいい。というか、逆の立場だ。量子論の極限から古典が出てくる。
運動方程式とかそういう古典の枠組みを捨て去れなければシュレディンガー方程式はわからないし場の量子論はわからない。
古典極限を知っておけば、量子論を組み立てるときに参照できるベースにはなる。
とはいえ、モチベーションが生まれないというのもわからないでもない。いや、身近な形で引き出せないと私自身モチベーションにならないのだ。宙に浮いた議論に感じるとその瞬間に意味を失う。
だが、量子論の具体的なフォーマリズムを学ばなくてもいいじゃないか。
つまり、ヒルベルト空間で状態を張る
なんてことは最初から知らなくてもいい。
だが、
状態を測定した時に、測定はその状態に影響を与えない、というのは自明ではないだろう
ということを伝えてもいいのではないか。
そうするとある種のyes-noチャートみたいなものを作ることができる。
yes-noチャートは理論の位置するべき「公理」をリストアップしてくれるだろう。
そして、測定とか状態とかいう、非常に一般的だが、身近な対象にも共通するべき概念を扱っておくことで、古典理論の公理もある程度教えてくれうる。
yes-noチャートを作っておいて、現象を観測して、理論の位置付けを見ておく、というのはストーリー作りには使いやすいのではないだろうか。
「順序」というテーマで書き出した割に順序はどうでもいい、というのが結論となってしまったが、
yes-noチャートを作れ、というのが私のポイントとなってくる。そしてそれは量子論程度に進んだ理論が明確化してきた(ある種哲学的レベルに食い込んだ)公理群を見返せばできてくる、という話である。
完
さて、その中で物理の学習順序の話をしよう。
歴史的には古いものは人間感覚的であるというか、人間社会人間言語に応じて作られている。新しいものほど、専門概念が出てくるが、それ自体の本来の意味はちゃんと学習しないとわからないようになっている。
それはいろいろな理由があるが、基礎論という意味では、子供なら気にしても大人では気にしないような「馴れ」あるいは理由を問うても出てこないがなぜかうまくいく「公理」を新しいものほど非直感的というか、少なくとも人間の生きてきたところの「馴れ」からは遠くなるようにできている。というか「言い換え」「改変」を重ねているからだ。新しい着眼点を加えたり、それらをフォーカスしながら、歴史はそれを作ってきた。
つまるところ、歴史の古いものほどわかりやすい気がするのだが、その理由は、生きる上で作ってきた技術に素直だからだ、という辺りだろう。と私は思う。量子論はその辺り全く直感的ではないかもしれない。
しかし、そういう新しい理論が前提とした問題提起を理解しておいたほうが、本当の意味で古いフォーマリズムを理解できるだろうし、そういうフォーマリズムの学習だったら本当はどの形式からやっても大した差はないのではないか、と。少なくとも、問題提起をしなければ人間というのは「自明」と考えるが、問題提起をされると途端に「非自明」と思う生き物らしい。非自明でも正しいことを論理的に導ければいいが、そうでない場合我々はそれを公理としておかざるをえない時もある。量子論はその点、全くもって公理としてかなりいろいろ置いてあることを明示的に学習できる。
だから、実は量子論からやってもいいのではないか、とも思う。
もちろん、歴史に沿った学習をしないと専門化は上の学年で、なる一般的な形式には対応できないのだが、専門化というのは基礎論の上にある技術的な、応用をやるという場合には限らない。
現に、量子論は古典論がなくてもいい。というか、逆の立場だ。量子論の極限から古典が出てくる。
運動方程式とかそういう古典の枠組みを捨て去れなければシュレディンガー方程式はわからないし場の量子論はわからない。
古典極限を知っておけば、量子論を組み立てるときに参照できるベースにはなる。
とはいえ、モチベーションが生まれないというのもわからないでもない。いや、身近な形で引き出せないと私自身モチベーションにならないのだ。宙に浮いた議論に感じるとその瞬間に意味を失う。
だが、量子論の具体的なフォーマリズムを学ばなくてもいいじゃないか。
つまり、ヒルベルト空間で状態を張る
なんてことは最初から知らなくてもいい。
だが、
状態を測定した時に、測定はその状態に影響を与えない、というのは自明ではないだろう
ということを伝えてもいいのではないか。
そうするとある種のyes-noチャートみたいなものを作ることができる。
yes-noチャートは理論の位置するべき「公理」をリストアップしてくれるだろう。
そして、測定とか状態とかいう、非常に一般的だが、身近な対象にも共通するべき概念を扱っておくことで、古典理論の公理もある程度教えてくれうる。
yes-noチャートを作っておいて、現象を観測して、理論の位置付けを見ておく、というのはストーリー作りには使いやすいのではないだろうか。
「順序」というテーマで書き出した割に順序はどうでもいい、というのが結論となってしまったが、
yes-noチャートを作れ、というのが私のポイントとなってくる。そしてそれは量子論程度に進んだ理論が明確化してきた(ある種哲学的レベルに食い込んだ)公理群を見返せばできてくる、という話である。
完