小中学校教育の都合、高校程度の物理や数学の論理的な構造の大きな対象物を扱うのはやはり難易度は決して低くないだろう。

それが生徒の多くの方が高校で物理に対して「難しい」と思わせる原因の一つとなっているのは間違いない。

さて、残念なのは、そういう「難しい」というイメージを沸きつつもなんとか一年や二年高校で物理を取り組んでも全く最先端物理の見通しも立たないし、それどころか古典物理の見通しも立たない。

ところが、日本人の大半はそこに対処する前に、ここから離れてしまう。したがって、当該学問についてろくに知ることなしに、下手したら間違ったイメージだけを持って、大人になってしまう上に、そこで持ったイメージを基に教育観を持ってしまったり、子供にイメージを伝えてしまったり、極めて大きな弊害を生んでいるように思う点も多い。

さて、近年の高校参考書とか、予備校のとある講師とか、カリキュラムそのものを見てると「イメージ」あるいはリアリティを大事にしすぎているのではないか、と私は思う。

ニュートンの力学法則をいちいち教科書に羅列したら小中学校のカリキュラムをやってきただけの子供たちはどうする?

もう、「暗記」して、「唱えられる」ようにしますよ。
で、それができたら完璧、って思ってしまうでしょう。特に「優等生」は。

違うんですよ。ニュートンの法則をいわば「ヤクザのように」厳密に適用して問題を解いていくのが物理になってくる。高校物理の問題を解く段階で本当に必要なのは、イメージのような雑念が入るものではなく、とりあえず基本法則を忠実に、ひたすら適用する。最後に出てきた結論について、それがリアリティーを持っているか、を考えることの方が、より正答に近いと思う。

その意味で、論理的な法則の運用能力、すなわち、数学の場合とは違って、自然現象に対して、必ずしも自明ではない(場合によっては間違いを含む)公理を設定して、論理的な処方箋をとるものとしての、「物理」をもう少し徹底して導入することも考えてもいいのかもしれない。

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みたいな構成っていうことになるのか、と思う人もいるかもしれないが、もう少し明示的に論理構成を表示した量子論の基礎―その本質のやさしい理解のために (新物理学ライブラリ)/サイエンス社

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あたりのことを意識した構成であろうか。

ニュートンが導入した「力」という概念は少なくとも熱力学における「エントロピー」と同じくらいには「謎モノ」である。

なぜかそういうものがあって、それは原因別に分類可能なもの(バネの「弾性力」だの、摩擦力、だの、とかくそれを生じさせる原因を分別できるということ)で運動第三法則を満たすような代物で、最後単純なベクトル和をとると力学第二法則に従って運動の様子を決定する「運動方程式」を構築する。

ということはどこも自明なわけがない。そこに自明性を感じさせるような教育は私は悪く言えば洗脳だと思う。

従って、あえて最初から何かしら目標を明示して、その道具として運動方程式の組み立て方のみを明示して、組み立て方だけを練習して、その上で運動の具体的な「解」を導きつつ、そこから...というような組み立て方をして、という構成でも悪くはなかろう。

その程度なら既にちゃんとやっている人はやっているだろう。高校の教科書にはma=Σfではなくma=fと書いてあるが、ちゃんと前者を伝えてくれている人もいてもおかしくはなかろう。

いや、だったら、だ。
いっそのこと、量子力学からやってしまってはどうだ。
という意見もある。もっとも、こちらの場合、身近な問題を解くことが難しい。欲しい情報と得られる情報の対応関係があまりにもわかりにくい。

古典論のいいところは、欲しい情報(実験的に直接確認できるもの)がそのまま物理の論理構成で本質的であることだろうか。それに対して、量子論はそうではない。いちいち「状態」というものに落とし込む必要もあれば、その「状態」が非常に厄介で、まだわかっていないこともある。

その意味で私は量子力学から...というのは抵抗感が強い。
古典形式の知識があれば十分なケースも少なくはないし、どっちみち、身近なスケールの議論では古典論に落とし込んでいかなければ有用な情報を得るのも苦しくなってくるだろう。

ただし、どちらにせよある程度の数学と連携した、イメージを度外視した基礎論から組み上げていく種の構成、というのを指向した方が早道だと、思うのである。