エセ物理、という範疇に入れるべきかどうか、という問題はありえますが、そういう根拠になってくるケースとして、素朴理論の一つの原因として、「用語と日常語の相違」を一つ、あげてみたいと思います。

例えば、「力」と「熱」はともに物理学上の専門用語であるが、同時に、日常用語でもあります。
しかし、両者はかなり違う意味を持っています。

力というのは物理学においては通常は(注:通常でない例もある。そういうことが生じてしまった原因はいろいろあるが、それを混同してしまう議論は危険である。)、ニュートンが導入した"force"と呼ばれる概念に相当する。

ニュートンの運動の第二法則とは、物体に加速を生じさせる(運動の様子を変化させる)要因は様々なものがあるが、それらを「力」と呼ぶこととし、考え尽くされる要素を全て取り込んで(ベクトル的に和をとって。そういうものを「合力」という。合力とは「2つの和」ではなく、「全ての和」である。計算の便宜で二つだけ考えることが多いが、二つではない。)やると、最終的にその物体の加速度と質量の積に等しい、という法則です。(ニュートンの法則は多く誤解されるのが、力の定義あるいは、力一個一個が加速度と等しい関係を持つ、といったもので、和をとるものが一個しかなかった時、それは直接質量かける加速度という形になる、という「定理」が出てくる。教科書でΣ記号を使えないゆえのミスだろう)

あるいは、「加速していない」のに「力がある」という状況を感じることは多いでしょう。
実際、床に力を加えても、床が変化しない、ということが往々にあるわけです。

これ、先のカッコの注意です。つまり、「合」力が加速度を生じさせるのであって、
「加速していない時は力がない」とはニュートンの法則は言っていないのです。
ニュートンの法則は加速していない時は「合」力が0なのです。

とまあ、物理の法則っていうのは繊細なのです。

この法則を見ると、物体の運動の様子を変えさせるもの、としての力の性質が与えられるが、この法則によって、合力の時間積分(難しく感じられる方もいらっしゃるかと思いますが、まあそこは流してください)は質量かける速度(これを「運動量」という)の変化を表す、という定理が得られます。

運動量を持った物体というのは、「重く速い」物体ということになります。それを止める場合や動かす場合には「力がいる」という感じがありますね。あるいは、日常的な感覚では、そもそも、どんな物体でも摩擦だの何だので、一定の動きを維持するだけでも、そう言った「抵抗を打ち消すだけの」力を加えなくてはいけない。

しかもやらしいことに、抵抗というのは、(エネルギー計算上)速度が大きいほど、大きい(ニュートン的な意味での「力」はさほど大きくならない。場合によっては小さくなる)。

ということでそろそろ気づいてきたかと思いますが、日常言語では意識しないが、物理の単語では「エネルギー」「運動量」といった部分に「力」という単語が食い込んできます。

そして、それで済まされていくのです。それに慣れきってしまうのですね。

「力」という単語は前近代からある単語です。しかし、物理学教育を、この繊細な意味までつかみ取れるほど受ける人間は少数派です。前近代から親、親族、社会の人々が使っていて、どう使えばいいのか、を経験して掴み取って子供達は成長していくわけです。

その使い方はある程度変遷しますが、言語の使い方はフィーリングで適当にやっていけばいいですが、専門用語はむしろ厳格です。合わせようとすることも難しければ、仮に実現してもすぐ崩れるでしょう。用語と日常感覚は違っているのです。その調整をいい加減にして、混同すれば、一気にエセ物理の出来上がりです。通常はこれは「素朴理論」というのだと思いますが。

力もそうですが、「熱」の方がもっと悲惨です。「熱を持つ」という言い方があるように、日常感覚ではそこに何かしら「熱」と呼ばれる実体がある、というような印象を持たせる表現があるわけです。さらに、我々は熱学に関する話を理科などで学ぶとスローガンのように
「熱はエネルギーだ」
という言葉を受け取ります。そうした時、何かしらの実体がすなわち「エネルギー」という名前に貼り変わる、のです。

先人たちが物理学を作る時に、現代でいう「内部エネルギー」か「エンタルピー」あたりを「熱」と名付けてくれればよかったのですが、そうではなく、「内部エネルギー変化のうち、仕事ではない部分」として定義してしまった。つまり、エネルギーの「移動」という形で定義してしまったのだ。

そうすると何が都合が悪いか、というと、物体に熱として入り込んだものが力学的仕事に変わってしまって、直接的に内部エネルギーの増加分にならないことがある。熱力学的な現象はある種のパラメータを固定して考えることが多いので、この場合は圧力固定としよう。そうすれば、例えばガスなどを考えると、熱流入があると、体積膨張する。体積膨張が圧力がゼロでない状況で起これば「仕事」がある。

さらにやらしいのは、ずっと等圧ならまだしも、固定する変数の取り方を状態ごとに変えたりしつつ最後元に戻るようにしてしまうと、熱として出入りした量が正味では0にならない。元に状態を戻しているので、気体が持っている「内部エネルギー」は最初と最後で同じにもかかわらず。

それは力学的エネルギーに変化したのだから当たり前、と思うだろう。だが、それでいいのか?
物体内部のエネルギーを「熱」と呼ぶことにすると、内部の「熱」の変化が、出入りする「熱」とくいちがうという事態に陥る。

だから熱がエネルギーというスローガンは
「内部エネルギーと熱は区別して考えなくてはいけない」
「熱は内部エネルギーを変化させる要因の単なる1つ」
という意味を持っていたのである。

それはつまり、「熱を持っている」という言い方がナンセンスであることを指し示している。その熱は場合によっては力学的仕事として取り出される事だってあるわけだ。

つまり、日常言語はやはり用語と照らし合わせると、間違っているのだ。
ところが、そこを混同して用いれば(そして、よほど丁寧に学ばない限り、混同する)、素朴理論の完成。

かつての「自然哲学」で出てきた概念はおそらく人間の感覚からすれば、受け入れやすいはずだ。
例えばインピタス理論や、熱素という考え方について、「インピタスは間違っている」という教育を受けていたり、「熱素は間違っている」という教育を受けているから間違っている、とわかるが、熱素という名前を「熱エネルギー」と取り替えたら、インピタスを「力」と取り替えたら...


エセ物理を眺めると、そういう単語の名前の貼り方や多少定義を変えれば、古代や中世のそれと変わらない印象を持つものも、あるのではないか、と。