【第44回です】

とある資料によると、日本の敗戦を控えた1945年8月11日に、朝鮮総督府は京畿道知事を通じて、朝鮮における資本家及び地主勢力を代弁することができる宋鎮禹(ソン・ジヌ)と接触し「行政委員会」を構成してくれる事を要請したらしい。

しかし、宋鎮禹(ソン・ジヌ)は大韓民国臨時政府と連合国の承認無しに応じる事は出来ないと言って断った。

また朝鮮総督府の要請に応じて、独立政府を樹立すれば、日本の傀儡政権と非難される恐れがあるとして、この要請を断った。

(本当だろうか?もしそれが本当なら、日本の撤退後、朝鮮半島の本命政権は、最初、呂運亨(ヨ・ウンヒョン)ではなく宋鎮禹(ソン・ジヌ)だった・・・と言うことになる)

考えられることは、日本側の工作は、陸軍派と朝鮮総督府派で複数あったのではないか?ということ・・・
若しくは、大東亜戦争後の資料が幾つか捏造されてるのではないか?と言うことだ。


今のところわからないので、取りあえず、複数ある説の中の1説を続ける。

朝鮮総督府は宋鎮禹(ソン・ジヌ)に行政委譲を提案するも、断られ、そこで、仕方なく朝鮮総督府は、8月14日に宋鎮禹(ソン・ジヌ)と近い金俊淵(ジンジュンユアン)(朝鮮語ウィキしかない)に依頼した。

しかし、金俊淵(ジン・ジュンユアン)は宋鎮禹(ソン・ジヌ)の参加無しには応じる事が出来ないとして、これも拒否された・・・ということだ。

(果たして本当だろうか?確かに今聞けば美談だ、ゆえに後世捏造された気がしてならない。こんなタナボタのような話を断るほど、これらの人物は人間できていないと思うのだが(笑)・・・)

まあ、話を続けよう。
ゆえに、最終的には、朝鮮総督府の要請は呂運亨(ヨ・ウンヒョン)と安在鴻(アン・ジェホン)に持ち込まれ、「朝鮮建国準備委員会」を呂運亨(ヨ・ウンヒョン)、安在鴻(アン・ジェホン)が設立したことになっている。

(ここも怪しい、予め朝鮮建国準備委員会の青写真は朝鮮総督府側でできていないと、こうも早くスムーズに進まないと私は思う)

さて、話を戻そう。
呂運亨(ヨ・ウンヒョン)、安在鴻(アン・ジェホン)は宋鎮禹(ソン・ジヌ)に対しても委員会へ参加するよう依頼したが、重慶に亡命中の金九(キム・グ)が主席を勤める重慶臨時政府を迎えて独立政府とすべきである、と主張して呂運亨(ヨ・ウンヒョン)らの動きに強く反発した・・・とある。

そして、宋鎮禹(ソン・ジヌ)は、1945年9月16日に、金性洙(キム・ソンス)、張徳秀(チャン・ドスク)(英語版ウィキしかない)、趙炳玉(チョ・ビョンオク)、尹潽善(ユン・ボソン)などとともに「韓国民主党」を創設し、宋鎮禹は首席総務となった・・・とある。

(この韓国民主党というのは、日本の傀儡政権である建国準備委員会にたいこうしてつくられたものであるのはわかるが、バックにいたのは米国ではなく、湖南財閥ではないか・・・と思う、理由はおいおい説明する)

話を進める。
1945年12月27日のモスクワ三国外相会議の信託統治方針をめぐって、宋鎮禹(ソン・ジヌ)は慎重派の意見を代弁する立場にあったため、李承晩(イ・スンマン)や金九(キム・グ)の臨時政府と敵対し、12月30日に暗殺された。

犯人グループは6名から構成され、放った弾丸13発のうち、6発が体に命中していた。
犯行の背後が明らかにされる事はなかったが、李承晩(イ・スンマン)もしくは金九(キム・グ)が指揮していた、という説がある。

ここが重要なのであるが、宋鎮禹(ソン・ジヌ)は大東亜戦争後の解放政局で、もっとも早く暗殺された、指導者だ。
1945年12月27日に殺されてる。

ここで少し韓国民主党について、まとめておく。

※韓国民主党は1945年9月16日にソウルで結成された。
右派独立運動家・宋鎮禹(ソン・ジヌ)が初代主席総務となったが同年12月に暗殺されたため、金性洙(キム・ソンス)がその後を担った。

※呂運亨(ヨ・ウンヒョン)ら朝鮮国内にいた左派系・中道系の独立運動家たちによって結成されていた朝鮮建国準備委員会(建準)に否定的な立場を採っていた。

※韓国民主党は結党に際して金性洙(キム・ソンス)の「湖南財閥」など財界の支援があり「建国準備委員会」への対抗から、重慶大韓民国臨時政府(臨政)の支持を打ち出していた。

※米軍政府にも多数の党員がおり、米軍政内部で大きな影響力をもっていた。

さて、話をもう少し進める。
モスクワ3国外相会議というのは、国連による朝鮮半島の信託統治が提案された会議である。

ここら辺から、ゴチャゴチャし出す。

建準=建国準備委員会
韓民党=韓国民主党
臨政派=重慶臨時政府


韓民党も臨政派も国連信託統治には反対の姿勢を示すが、韓民党は他方では米軍政と協力し、臨政派による過激な反対運動を非難した。
さらに、臨政派が左派との合作(左右合作運動)を始めると、これに反発した。

(ここら辺になると、もう何がなんだかわからなくなる。正直いって、この辺の解説本はたくさん出ているが、いずれも美談に仕上がっていて、ほとんど全部後世に都合のいいように編集されてる気がする。特に李承晩が出てくると、胡散臭さが倍増する)

さて、その李承晩がここで出てくる。
韓民党は孤立を深め、李承晩(イ・スンマン)に接近し、アメリカ軍政の仲介によって李承晩(イ・スンマン)を支える役割を担った・・・とさ(笑)


10月韓民党は、アメリカから帰国直後の李承晩(イ・スンマン)とともに政府準備組織「独立促成中央協議会」(独促)を発足させた。

さて、またわけのわからない組織が出てきた・・・ウィキで調べてみると。
※独立促成中央協議会(独促) - 1945年10月李承晩が帰国した直後に韓民党が結成。当初は朝鮮共産党など左派組織も結集した統一戦線的組織であったが、左派勢力は後に離脱・・・だそうだ。

李承晩(イ・スンマン)・韓民党連合は臨政・建準両派に対抗し、アメリカ軍政の力も借りて彼らを排除した。

ほどなくして、韓民党は李承晩とともに解放直後のソウル政界で主導権を握るにまで至った。


・・・だそうです。
李承晩(イ・スンマン)が頭角を表す意味がわからない。
識者は李承晩のバックには米国がいたという。
まあ、簡単に言ってくれるが、それで納得できない人も多いだろう。

まあ、取りあえず、話を進める。


1948年5月の制憲議会選挙では29議席を得たが、李承晩系の大韓独立促成国民会(独促)や無所属勢力が多数派を占め、韓民党は第3党にとどまった。

しかし、韓民党と李承晩の連合は、大韓民国樹立前の短い一時期にしか成立せず、後に両者は激しく対立した。

最初の対立は憲法制定において大統領制か議院内閣制を採用するかを巡っておきる。

韓民党の多数は議院内閣制の採用を望んでいた。
両者の対立はほどなくして抜き差しならないものになった。

日本統治時代に普成専門学校(現在の高麗大学校で湖南財閥)教授をし、
ソウル大学校教授を兼務していた兪鎮午・憲法起草委員会議長は、
韓民党の意向を受け大統領を形式的な元首とする議院内閣制に近い憲法草案を起草していた。

しかし、李承晩により大統領中心制へと転換された。

つづいて国務総理の人選をめぐって両者の対立が起こる。

金性洙を推す韓民党に対し、当初李承晩は李允栄を国務総理に任命しようとしたが、27対120の大差で否決される。

しかし李承晩は続いて李範奭を国務総理に任命し、110対84で承認を得る。

さらに李承晩は初代内閣の組閣にあたり韓民党の勢力を徹底的に排除する。

韓民党からは金度演のみが財務部長官に任じられた。
こうして韓民党は野党となった。

韓民党は1949年1月26日に、申翼熙の大韓国民党、池青天の大同青年団と統合して民主国民党(民国党)へと再編された。

翌年1950年6月に勃発した朝鮮戦争により、湖南財閥の中心企業であった京城紡績の設備が著しく破壊された上に、李承晩は京城紡績の預金引き出しを停止し、圧力をかける。

こうした結果、京城紡績は与党自由党に資金供給を行うようになり、民国党は湖南財閥の支持を失い、金性洙も政治の表舞台から姿を消していく。

1955年には民主党へと再編・改称され、李承晩政権における野党勢力の中核を担い、1960年4月の四月革命で李承晩が退陣した後で成立した第二共和国の与党となった。


う~ん、李承晩(イ・スンマン)が出てきたあたりから、急に解説が複雑になってきてる。
嘘臭く感じるのは私だけでしょうか?

李承晩についての解説は、どうも信用できない。
ゆえに、李承晩を掘る前に、もう少し、宋鎮禹、呂運亨、金性洙、らを研究したいと思います。

ゆえに、今回はここまでとします。