(第43回目)



安在鴻(アン・ジェホン)は建国準備委員会では呂運亨(ヨ・ウンヒョン)委員長に次ぐ、副委員長であった。

しかしながら、大日本帝国と朝鮮総督府と朝銀と日窒コンツェルンが工作した幻の「朝鮮人民共和国」では、閣僚名簿に名前がない。

ここでもう一度、幻の朝鮮人民共和国の閣僚名簿を見てみよう。


朝鮮人民共和国樹立宣言(呂運亨、許憲、朴憲永作成)

閣僚名簿発表(△は未帰国者)

主席:李承晩△、(イ・スンマン)
副主席:呂運亨、(ヨ・ウンヒョン)
国務総理:許憲、(ホ・ホン)
内務部長:金九△、(キ・ムグ)
外交部長:金奎植△、(キム・ギュシク)
軍事部長:金元鳳△、(キム・ウォンボン)
財務部長: 霪晩植、→たぶん曺晩植(チョ・マンシク)
保安部長:崔容達、(チェ・ヨンダル)
文教部長:金性洙、(キム・ソンス)
司法部長:金炳魯、(キム・ビョンノ)
宣伝部長:李観述、(リ・カンスル)
書記長:李康国、(リ・カンクック)

人民委員55名(金日成△(キム・イルソン)、武亭△(ム・ジョン)など)、
人民委員候補20名、顧問12名


正直、これらの人物の読み方を調べるだけでも苦労した。
ウィキに名前が乗ってない人もいた。
本当に、重要人物なのか?とも思ったが、逆に言えば、中国語やハングルでのウィキはあるパターンもあった。

要するに、我々の朝鮮に関する知識は、予めバイアスがかけられていると言うことだ。
勿論、細かく重箱の隅を突っつくことで、真実が見える訳じゃないが、
現代の朝鮮半島問題の専門家や、専門書の言葉や文章が真実だと思う事は、たぶん大きな間違いなのだろう。たぶん都合よく改竄されている。
てことで、話を進めよう。

どうも不思議なのは、呂運亨(ヨ・ウンヒョン)と安在鴻(アン・ジェホン)が距離を置いてしまった事だ。

本来なら、閣僚名簿の国務総理:許憲(ホ・ホン)のところが、安在鴻(アン・ジェホン)になるはずである。

どうもここのところで、なにかがあったようなのだが、よくわからない。

朝鮮軍や朝鮮総督府にとっても、早急かつ穏便な朝鮮独立運動家達への国家権力委譲を済ませる事が、重要だったはずだ。
日窒コンツェルンや朝銀の資産隠匿のためにも、ここでの安在鴻(アン・ジェホン)の非協力的な態度は、いくら安在鴻の言葉が正論的(独立運動家海外組の話を聞いてから)だとはいえ、痛手だったのではなかろうか。

そこで、今度は、もう一人の日本側の痛手であた辞退者、明大卒の大物独立運動家、宋鎮禹(ソン・ジヌ)について、掘り下げてみようと思う。

宋鎮禹(ソン・ジヌ)は呂運亨(ヨ・ウンヒョン)、安在鴻(アン・ジェホン)の盟友であったにも関わらず「建国準備委員会」に参加することすら辞退している。

何でも、呂運亨と安在鴻は、建国準備委員会を立ち上げるとき、真っ先にこの宋鎮禹(ソン・ジヌ)に声をかけたが、拒否されたらしい。

さてさて、どんな人物なのであろうか?

ちなみに、勿論、カニ太郎は、この宋鎮禹なる人物、全くの初耳であります(笑)

ホンマに韓国では有名人なんでしょうか?(笑)

まあ、胡散臭いですが、まずは経歴でも見てみましょう。


宋鎮禹(ソンジヌ、1887~1945、全南潭陽生れ)独立運動家

潭陽英学塾で新学問に接し、金性洙(キム・ソンス)に出会う。

東京正則学校・錦城中学をへて早稲田大学・明治大学で学ぶ。

1915年、明治大学を卒業後、帰国して私立中央学校校長に就任する。

1919年、三・一独立運動に参加した容疑で、1年間投獄される。

1921年~1924年、東亜日報第3代社長。

1927年~1936年、第6代社長を務める。

1936年、日章旗事件で辞任。

1945年、第8代社長に就任した。

解放後は政党をつくり反託(これは信託統治反対の意味、後ほどやります)を主張、襲われて政治テロの犠牲になった。

この宋鎮禹なる人物は、かなり金性洙(キム・ソンス)とセットで語られる部分が多い。
実は金性洙(キム・ソンス)なる人物もかなりの大物で、というかこの人物にはバックに(湖南財閥)が付いていた事に私、カニ太郎は非常に興味がある。

ゆえに、宋鎮禹、金性洙、について掘っていけば、かなり面白くなりそうである。

取りあえず、今回はここまで、次回に続く(笑)