my story vol.9

高校卒業前、「どうして病気になってしまうまで待つの?」「病気を防ぐためにきっと出来ることがあるはず!」という想いが沸々と湧き上がっていた。
たまたま、春休みに仲良くなった老夫婦のお父さんが、在宅で処置を受けていたフィリピン系のナースさんがとても魅力的だった。迷わず看護師さんになる!と決断。

英語力もおぼつかないため、老夫婦の住む街へ引っ越して、地域の短大で一般教養を学びながら、看護科のある大学へ編入する。

話が遡るが、高校で自動車運転免許取得のクラスでは、校内の一角に設置された専用の教室で、ビデオやシミュレーターで勉強後、いきなり3人ひと組になって、路上へgo!教官役の先生は、窓を開けて肘を外へ出した状態でラジオをかけながらリラックスモード。

運転席には、初めて運転する自分と同じ境遇のクラスメイトがハンドルを握る。興奮を押し殺して、発進。リアシートには、ビビりながら座る祐吉ともう1人のクラスメイト。高速道路の運転練習では、通常モードでハンドルを切ると車体が大きく揺さぶられることを、まざまざと体感。荒療治。恐怖の経験。その後、ホストのお父さんのマニュアル車をお借りし、家族の時間があるときに、広い駐車場へ連れて行ってもらって運転の練習。エンストし過ぎて車が壊れるかもしれないということで、センスゼロの祐吉のマニュアル車練習はあっけなく終了。通常では、高校を卒業している年齢の祐吉と、16歳のお誕生日にお役所で免許証をもらうために、15歳の高1のちびっ子クラスメイトに紛れて、1学期間毎日教習所のような授業を受けた。

話は戻るが、このような『現場で体感して、向き不向きを自分で決める』システム。結構恐怖だしチャレンジ感半端ないが、この流れで、看護科1年生の祐吉は、実習先の病棟で、痛みで悶える患者様に、恐怖の初注射を打った。看護科の先生に見守られながらも、まさに「ここよ、ここよ!」と指を三角形にして指示していただき・・・というなんとも言えない日本では考えられない光景だったと思う。

アメリカでは、メートリックシステムを導入していないため、薬の分量を、複雑な換算表を見ながら計算し、手動で割ったり粉を分けたりとアナログ作業があった。案の定、置いてけぼりの祐吉は、とにかく患者様との交流が楽しかった。皆悲壮感に駆られていて、諦めの中薄暗い病室で暮らしている感じだったが、何度も顔を合わせ、体を拭いて差し上げたり、お話を伺ったりしているうちに、ぽろっと涙を流されたり、表情が柔らかくなるの感じた。

先端恐怖症の祐吉、看護より介護に向いていたのだ。今なら、即方向転換を促す所だが、とにかく「医療の分野で卒業しなければいけない」という思い込みから、そのような選択肢は頭になかったのが現状だった。

睡眠時間を削って、翌日関わる患者様のカルテを分析し、処置方法や傾向を割り出したという作業は、日本語であっても無理があった。当時、持参していた看護学の和英英和の辞書には、専門用語が詳細に載っている訳でもなく、トリプルで超えられない壁を前にしていた。

車での移動が日常で、教科書や資料は広辞苑並みものを何冊もリュックに押し込み、睡眠不足の日々が続く。大好きな病棟での実習期間中、突如として脚の付け根の痛みが悪化。旅行者保険で、やっと取り付けた病院での外来診療では、1万円越えの血液検査を受けた挙句「リウマチの疑い」という診断。長期休みに帰国し、症状を元に、大学病院をまわって診断受ける。先天性の股関節症との診断。アジア系とネイティブインディアンのみに認められる疾患だったため、アメリカでは診断がつけられなかったのではないかとのこと。痛み止めを飲み続けたり、松葉杖をついたりという日常が始まる。

看護科の実習を継続することは難しくなったため、適正テストを受け、一般教養課程を修了し次第、州の大学へ転校し、社会福祉へ転向することになる。おじいちゃんおばあちゃんが大好きで、老人学を学びたかったのだが、視野が狭すぎるため、福祉全般を勧められ、決断。ガールスカウトやボランティア活動が認められ、倍率の高かった希望の学科への転入が認められ、そこから、新たに転校先の学校の必修科目も含め、時間をかけての卒業となった。

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