----- 3月22日(金)-----

起床は7時過ぎ。「何時まで寝てるの?」とばかり、妻に起こされました。
6時10分の車内温度は2.5度だったそうです。
出発前に調べた設楽町の最低気温は-4℃でしたから、寒い朝に成る事は覚悟していましたが此処までとは・・・
妻がFFヒーターを点けておいてくれたので暖かく起きられはしましたけどね。

さて、朝食用にお湯を沸かそうとしたらコンロの火力が上がりません。今回は「こういう事もあるだろう」と事態を予測してカセットコンロを積んできました(笑)
▼朝食


スナックサンド、カット野菜サラダ、バナナ、トマトジュース、白湯(ピザチーズ味は残した)
そして食後の珈琲。

出掛ける前に「設楽原古戦場の地図が有ったらよいなぁ」と思いました。それで観光案内所が開く9時を待ちました・・・が9時に成っても『CLOSED』の看板が出入り口のガラスに貼り付けられたままです。
5分経っても変わらないので駄目元でドアの前に立ってみました。すると自動ドアが開いたではありませんか。係りの人が外し忘れただけなのでした。
係りの人に「設楽原古戦場を歩きたいのですが地図とか無いですか?」と聞きますと、長篠古戦場散策マップと設楽原古戦場散策モデルコース地図と長篠城址史跡保存館&設楽原歴史資料館のパンフレットを下さいました。
地図を見ながら歩けるので、これはありがたいです。

9時11分に『道の駅 もっくる新城』を出発して、国151を走行。『設楽原歴史資料館』の看板のある信号交差点を右折です。
設楽原歴史資料館第三駐車場を目指して走りました・・・が、この駐車場が分からなくて(googleマップの航空写真は平面に見えるので、道路よりも高い位置に駐車場が在るなんて想像もしていなかったのだよ)設楽原歴史資料館駐車場に駐車しました。
到着時刻は9時15分頃。
駐車場のトイレの片隅に立っていた『いろはかるたでめぐる設楽原の戦い古戦場』の看板が気になって、設楽原歴史資料館へ聞きに行きました。
▼設楽原歴史資料館


すると其の看板を縮小してプリントアウトした用紙を下さいました。観光案内所で貰った地図よりも廻る場所が多く載っているのでコレは助かります。
そして出掛ける準備をして、9時35分頃に散策に出発しました。

「設楽原歴史資料館の裏に信玄塚がある」と妻が言うので、まずは其処に行く事に。
▼長篠合戦陣歿者供養等


これが「信玄塚」と勘違いしてました。信玄塚は「大塚」の方でした(汗)しかも大塚は写真に撮ってないし・・・

▼閻魔堂


石造りの閻魔様が安置されています。
大塚の右横に在ります。てか閻魔堂の裏が大塚。

▼信玄塚(小塚)


織田・徳川軍の戦没者を葬った供養場所。
因みに勘違いして撮り損ねた「信玄塚(大塚)」は武田軍の戦没者を供養しています。

小塚の前の道を歩いて行くと、雑草が綺麗に刈り込まれた広場がありました。其の片隅にちんまりと古い墓石が並んでいました。
▼小幡一族の墓


勇猛で恐れられた赤備えの小幡隊は、安中隊らと共に武田軍の中央最前線で戦った。上野国甘楽軍国峰城の小幡一族は、設楽原の戦いで多くの仲間を失っている。

▼黒畑阿弥陀堂(山縣昌景公の塚)


細い道(坂)を下り切る前に在った建物。
中を覗くと三個ほど祠が有り、何者かが奉られているのは判ったけど、全部扉を閉じられていたし、建物の外の木の表札(?)は文字が消えているしで、後で地図で調べるまで何なんだかよく判らなかった。

さっき車で通った道路に出て、有名な馬防柵を目指して歩きました。
設楽原歴史資料館の看板の有る交差点の片隅に、何やら石碑が見えました。
▼甘利信康の碑


柳田前激戦地を担当していた。武田軍が敗れ撤退を始めると、庄屋の屋敷門扉に寄りかかって立ったまま切腹したとのこと。

▼柳田前激戦地の碑


徳川勢が馬防柵より出て鉄砲を撃っている場所。
連吾川に掛かる柳田橋の手前にありました。

▼馬防柵


武田軍側から見た馬防柵
連吾川と田んぼの泥濘に阻まれて勢いの落ちた所を、火縄銃で武田軍は狙い撃ちされた。

▼馬防柵


織田・徳川軍側からの馬防柵の様子。
延長2kmにも及んだ馬防柵は、連吾川沿いには三重の、背後の弾正山を越えた先に流れる大宮川沿いには一重の柵が設けられていた。
柵木は岐阜から担いできたらしい。

▼長篠・設楽原合戦屏風絵図

▼屏風絵図の説明


この後、徳川家康の本陣を目指しました。
長篠·設楽原の戦い決戦場跡入口の側の交差点に、八剱神社と矢印の書かれた看板があったのだけど「西に行くよりも南に下った方が近いんじゃないか?」と思い、看板を無視して南に進みました。
結構歩いた心算だけど、目印にしていた「家康物見塚跡」の看板が見えてこないので道を誤ったのではないかと不安になりました。
持って歩いているタブレットでgoogleマップにアクセスして確認していると、立ち止まって悩んでいる私たちを見兼ねたのであろう、田圃にいたお爺さんが声を掛けて下さいました。そして「鉄塔の所を曲がって、東郷中学校の裏を行くと八剱神社があるよ」と教えてくれました。
道を更に南下して鉄塔まで来ると、鉄塔の足元にはお墓がありました。其のお墓の奥の小高くなっている場所に「家康物見塚跡」の看板が見えました。
そして鉄塔の先の交差点を右折すると、何やら碑が眼に入りました。
▼長篠設楽原決戦場碑



家康物見塚跡の碑を見たかったので、ケッターパークの方へ登って行きました。
▼家康物見塚跡の碑


家康が陣頭指揮をしたところ。

そして東郷中学校の裏を通って、八剱神社へ。
▼徳川家康本陣跡


八剱神社が本陣跡となっているけど、本陣は神社の奥を登って行った山の中にあったのではないかと思ったりする(googleマップではそんな風に見える)
一応、人が登って入ったっぽい場所を見つけたけど、通路はなさそうな感じなので神社参拝のみに留めた。

歩き疲れて車に戻る途中、電柱に何やら案内の張られているのを見つけました。


「午前中最後の散策」とばかりに行く事にしました。道順らしき図を読み間違えて、来た道を数十メートル引き返しまして、入れる小道があったので入っていきました・・・が違いました。そりゃそうだ、案内板のある小道を入って行くのが定石でしょう(苦笑)
案内板まで戻って、其処のあった小道を矢印に従って歩くと・・・
▼ 山縣昌景陣地の碑


山縣塚に行く小道の途中にありました。

▼山縣塚


小道のどん詰まりにありました。
左から順に、山縣昌景の墓・山縣塚・不明・山縣甚太郎昌次と従士名取又左エ門道忠の墓・高坂又八郎助宣の墓

そして11時40分頃、車に戻って来ました。
12時には少し早いですが、昼食です。
▼昼食


おにぎり、即席味噌汁


長くなりそうなので、午前の部と午後の部に分けます。
という訳で『設楽原古戦場に行ってきた(3)』につづきま~す♪