大正12年11月23日、加藤威夫・章子の次女として、神戸で生まれる。幼少期は体が弱く、左耳の中耳炎の大手術をする。
 
このため、左耳が難聴になる。
 
  雲中小学校時代、布引の滝の近くの雲中6丁目に住んでいた社宅家族と、海日和にはよく塩屋の海に海水浴に行った。
  
この家族ぐるみのおつきあいが、東京生活でも晩年まで続いていた。冬はスキーを背負って近くの六甲山でスキーをよくしていた。
  
神戸は山坂の多い地形である。由利子の晩年に至るまでの健脚はこのような若い頃の生活で培われた。
   
 昭和10年神戸女学院入学。妹の濵田美代子によると成績は優秀だった。
  
耳のために音楽ができないので、神戸女学院の美術の講師で洋行帰りの洋画家亀高の門を自ら叩き、
 
瀟洒な洋館にお稽古に通っていた。
   
 昭和14年(16歳)、油絵で県展に初入選を果たしている。書道も講師の西谷卯木の薫陶を受け、
  
聖句がいつも貼り出されていた。
    
 由利子は、美術学校に進みたかったのだが、その望みは叶えられず、落合の祖父母のいる井上家にお世話になり、
 
東京の家政学院に進んだ。
 
 その頃、三矢宮松=伯父大谷=加藤威夫のご縁で、宮松の次男、海軍大尉三矢篤とお見合い。海軍将校の素敵な軍服と、
  
ベンチにマントを敷いて座らせてくれたことにすっかり気を良くした。

 昭和19年3月28日挙式(21歳)。新婚生活は目白の大家族でスタート、昭和20年2月に長女素子出産。
  
昭和20年5月、東京山手を襲った東京大空襲で乳飲み子抱えて焼け出され、

その三日間はどこをどうやって逃げたか由利子は思い出せないでいる。
   
目白の家に戻ったら、井戸端で研いでいたお米が御釜がひっくりかえたまま、砂が混ざって炊けていた。
 
それで飢えをしのいだ。
   
 昭和20年8月5日に呉港停泊中の(篤の)弟、隆夫の乗務する海軍戦艦に泊まった篤は、
 
広島原爆の知らせを受け、広島に救援に向かう。
  
そこで見た壮絶な原爆投下後の様子を篤は由利子によく語っていた。
 
広島救援を経て帰京した篤は毎日洗面器にいっぱい血を吐き続けていた。
 
戦争は篤の体をかなり弱らせていた。
 
 篤の長兄進一郎がフィリピンで戦死。篤は三矢家の長男の役割を負うことになり、
 
由利子も様々なことを負う立場になった。
   
昭和22年1月に次女寿子を札幌で出産。北大の堀内研究室で仕事をしていた篤と一緒に、
 
由利子は戦後の食糧難の中、極寒の北海道で子育てに励んだ。
 
義妹倫子の夫、御園生圭輔が訪ねて来た時、篤の咳に気づき受診を勧められた。かなり重い結核だった。
 
篤は札幌で片肺切除し、ピンポン玉を入れる手術受けた。ここから由利子の看病生活が始まる。
    
  

 目白では由利子は毎日宮松の掛け軸の掛け替えの手伝いをしていた。
 
この日常が由利子の美意識・鑑識眼を育てていった。

また姑女の栄は嫁も娘も分け隔てなく接する人だったので、由利子にとっては有難たい存在だった。

  
栄は、お金の使い方で、食べること、着ることはすぐになくなるが、学んで身につけるものは
 
一生の財産になるからと、お稽古事にいくことを勧めた。
 
後年、鎌倉彫や、琳派の日本画を習えたのも栄の後押しがあったからだった。 

 
昭和28年9月3女由美が生まれる。昭和三十四年、宮松死去。昭和36年栄死去。

 
  篤は術後、徳川生物研究所に移り、クロレラ野外大量培養成功メンバーの一人という功績で、
 
新設立教大学理学部の教授として迎えられた。

 大学と自宅が近かったので、宴会好きの篤は、由利子の予定も聞かず、

しょっちゅう自宅に三矢研のメンバーを(晩年は顧問をした陶芸部のメンバー)を連れてきて、

食事を振舞ったり囲碁将棋・ブリッジ・ポーカーetc.に興じた。

篤は御園生圭輔、弟国男・隆夫・周夫たちとも自宅でよく集っていた。
 
由利子はその度に賄いをしていた。
 
 お正月になると30人以上の三矢研のメンバーが自宅に集った。
 
篤は、ソファーに座ったままで、由利子が娘3人を従え、料理に奮闘している姿を嬉しそうに眺めるだけだった。
    
 
 由利子は娘3人の洋服をほとんど手作りしていた。

銀座のショーウインドウのモダンな洋服をスケッチして下北沢で生地を探し、

 
娘たちにおしゃれな洋服を作っていた。

昭和43年、篤が2度目の胸部手術を受け、2年間休職した時の由利子の頑張りは凄まじかった。

昭和44年に素子を昭和46年に寿子を嫁に出した時も、様々工面し、寿子のイブニングドレスまで手作りした。

その後次々に孫が生まれ、素子や寿子の里帰りのたびに目白の家が合宿所のようになった。
 
素子、寿子たちが帰ると、必ず篤が倒れ、その後由利子が倒れることが繰り返された。

篤は、2度目の手術を受けてから10年以上も脇の下の傷が塞がらずに、膿がで続けて、

冬に試験監督をするたびに倒れて、墓場に片足を入れているような状態だった。
 

由美が素子や寿子のようにスムーズに嫁に行かないこともあって、由利子の心痛も大きかった。
     
 
 上の娘二人を嫁に出し孫の世話が一段落してから、伯父加藤英夫の勧めで日本画家三谷十糸子に師事。

絵に打ち込み始めた。昭和54年(56歳)第14回に日春展に初入選。
 
その時、篤に「お前が入選すれば、将来のある若い画家たちの席を奪うことになるから、公募展に出品するのはやめろ。」と、
  
言われ、以後日春展にチャレンジすることはなかった。昭和56年父加藤威夫死去。 
     
 昭和57年キョーレオピンを飲むようになって、篤の手術の痕が完全に塞がった。
 
この年、二回懸賞で海外旅行に当たり、由利子は初めて篤と二人で海外旅行に出かけた。

その思い出の絵が古都スコータイである。この絵は女子医大に寄贈している。
    
 由利子は還暦の時に初めての個展を開く準備をしていた。しかし、昭和58年5月3女由美結婚。同7月母加藤章子死去。同10
  
月篤死去。由利子は虚脱状態になっていた。昭和59年孫俊輔が生まれると、その世話で、元気を取り戻していったが3年間はおか
 
しい状態が続いていた。
   
  そんな由利子を勇気付け背中を押していたのは、御園生圭輔だった。

「ゆりちゃんは、あっちゃんの看病と家族の世話で明け暮れていた。もうみんなのために十分尽くしたから、
 
これからは好きなことをして好きなように生きたらいい。」と、

圭輔が篤の葬式の時に親族の前でいわれたのだ。
 
篤の7回忌を終えてから由利子は水をえた魚のように動き出した。
    

 由利子に一番大きな影響を与えたのは日本画家野村義輝と画商の福田正樹との出会いだった。

由利子はデッサン、クロッキーなど一から学び直した。スケッチブックを携え、海外旅行にもよくいった。

優しいしなやかの本当の気持ちを言葉で表現するのは極めて下手だったが、

由利子はその気持ちを絵で表現していた。個展3回。

   
 健康維持のために自彊術を習い出し、お仲間とのおつきあいは最晩年まで続いていた。

世代を超えた絵の仲間も多く、後輩の面倒ももよく見ていた。
 
野村義輝の後輩の日本画家山本真也を自宅に招き、水墨画の集いも開いていた。
 
終生孫達の世話も良くしていた。卒寿のお祝いの時の娘、娘婿、孫、ひ孫に囲まれた笑顔は晴れやかそのもの。
 
本人、娘、婿、孫、孫配偶者、ひ孫、合わせて30人の大家族になっている。
      
 由利子は一見豪放磊落に見えるが、とても恐がりで、用心深く、素直で勤勉な完全主義者である。
  
それだからこそ95歳3ヶ月まで一人で自立して生活ができたのだろう。
  
骨折の後、低ナトリウム血症で入院した際、ケアー付きホームに入ると決めたのも由利子自身。
 
葬式のスタイルを決めたのも由利子自身。
  
 たった2ヶ月しか過ごさなかったホームで最後に大好きなエビの天ぷらを食して、部屋に戻りトイレを済ませ
 
昼寝を始めて15分後に帰天。
 
 95歳8カ月。享年97。

見事に自分の人生をプロデュースして生き切った由利子の大往生、天晴れ。合掌。
                           
     令和元年 8月4日