あれは静かな雨の日だった。

「救急コールです。トラックと乗用車の衝突事故です。男性一名、意識レベル三百」
「受けて下さい」

午後一番で室内に鳴り響いた電話を取ったドクターからの視線に素早く頷いて答える。
すぐに併設されているユニットに足を踏み入れると、観察室から薄暗い病床を一望した。

「先生、今満床ですよ?」

取って付けたように投げ掛けられる背後からの忠告。
だがそれは、自分の返答を予測した上でなされているもの。
気にせず無言で各ベッドの横に設置されているモニターの数値を確認していく。
そしてそれを瞬く間に一巡させた後、間髪入れずに自分の判断を決定事項の指示として伝えた。

「後で脳外に移される予定の九番ベッドを前倒しで上げましょう。彼の事ですから既に受け入れ準備は整っている筈です」
「了解しました」

断続的な雨音に交じっていたサイレンの音が、救急車の到着を告げる。






目が覚めて一番、今日が非番である事を思い出した。
よほどの緊急時以外、呼び出しもない休日は本当に久しぶりで、もう少しこのままでも良いかと思う。
しかし十分な休息を取った身体はこれ以上の睡眠を必要とせず。
結局未だ静かに寝息を立てる存在を起こさぬよう、ベッドから抜け出るとシャワーを浴びに行った。




「・・・・あれ、起きていましたか」


バスルームを出て柔らかな綿のシャツを羽織りながら寝室の扉を開けると、ゆらりと上体を起こしてこちらを見つめていたユノと目が合う。
片手でボタンを留めながら、ベランダに面している窓のカーテンを開けてそっとベッドに腰掛けた。


「身体は?どこか痛む所はない?」
「平気。ただ、誰かさんが手加減を知らないせいでものすごく眠い」
「では今夜は早く寝られるよう善処します」


寝起きという事を差し引いても十分不機嫌そうな声音。
くすりと微笑みながらユノの腰に回した腕を引き寄せれば、いとも簡単に細身の身体が懐へ収まる。
だが、肌と肌が重なった瞬間安堵したように抜けていった肩の力に小さく眉を顰めた。
普段、全くと言って良いほど触れ合いに躊躇いの色を見せないユノが示した反応の原因は一つしかなく。
開きかけた唇で何を言えば良いのか迷っているうちに、ユノの指が自分のまだ薄ら湿った髪に伸ばされる。


「シャワー・・・・」
「ごめん、すぐに戻るつもりだったから」


戻るまで目覚めはしないだろうと高を括って、彼を一人にした事を酷く後悔した。
目が覚めた時に孤独を感じる事だけは、させたくなかったのに。


「どうして謝るの?」
「けど・・・・・」
「いくらなんでも、部屋の中に一人にされたくらいでどうにかなったりしないよ。こんな事をいちいち気にして、この先チャンミンが仕事の時はどうするつもり?」


穏やかな声音のままさらさらと正論を返すユノの表情は、呆れと苦笑を最前面に押し出していた。
だが、その奥にどうしても癒える事のない傷を抱えている事を知っている。


「心配ぐらいさせて下さい。僕には、それしか出来ないんだから」


ベッドの中心へ身体を移動させながらユノを抱き寄せ、腹部に回した手を組むようにして両足の間にその身体を挟み込んだ。
更に距離の縮まったユノの首筋へ唇を寄せながら囁くと、右肩へゆったり圧し掛かった頭の重さを感じる。


「昔の知り合いというだけの俺を引き取って・・・・自分と同じ空間に住む場所を与え、何から何まで面倒を見ているチャンミンがそれを言うの?」


家同士の付き合いがあったユノ自身と初めて会ったのは、大学の臨床実習先に選んだ海の向こうの国だった。
当時、僕は二十歳、ユノは十五歳。
三ヶ月にも満たない期間ではあったが、家庭教師という名目で度々家に招かれては自分に懐いてくれたユノを、柄にもなく可愛がったものだ。

そんなユノが高校を卒業すると同時に、父親の仕事の都合で帰国した矢先。
両親と共に自動車事故に巻き込まれ、一人生き残った。
その上父親の跡は継ぐが本家に戻る気はないと知って、僕と一緒に住まないかとユノに提案したのだ。
その時すでにユノは企業経営者としての自覚や責任を、十分に心得ていた。
未成年である事を除けば社会的にも金銭的にも、勿論精神的にもあらゆる面においてユノを子供扱いする必要はなかった。
ただ一人の人間として、傍にいる事を選んだだけだ。

何も特別な事はしていないのだからと、困ったように首を傾げていると、ユノが少しだけ視線をずらしてこちらを見た。


「愛して、くれたじゃない」
「・・・・・こら、大人をからかわないように」


至近距離で囁かれる、少々の恥じらいと絶えず与えられる安心感を包み込んだ声音の破壊力は凄まじい。
思わず首筋から顔を上げてユノを見やれば、なんでここまで言わせたのかと些かご不満な様子だった。
その横顔さえも自分にとっては愛しくて、ユノの素肌を隠しているシャツごと抱きしめながら思い返す。

そう、確かに自分はユノに退院後の生活についての提案をした時、立場も年齢も性別も関係なく一人の人間として扱うが異存はないかと訊ねたのだった。


「そういえば、俺が病室で初めて口を開いた時の事を覚えてる?」


換気用の小窓から流れ込むそよ風に、薄いレースのカーテンがふわりと揺れる。
ICUから外科病棟に移って間もなかったユノを訪ねた病室で、ユノは静かに窓の外の景色を眺めながら問うたのだった。 

どうして自分を助けたのか、と。


「あの時は、答えをくれなかったでしょう。いつか訊こうと思って、忘れてた」


止むに止まれぬ状況下で、どうして助けなかったのだと問われた経験なら思い当たる節がないわけではない。
しかし助けた理由を聞かれたのは、あれが最初で最後だろう。
それに、言ってしまえばその二つの間に明確な理由付けの出来る境界は存在しない。
いくつもの要素が重なり合って、白と黒を塗り分けるのだ。
けれども、敢えて理由を挙げるとしたら、それは一つしかない。 


「僕が、医者だから。処置室であなたを目にした瞬間、頭に浮かんだのは、あなたとの思い出ではなくこれから行うべき最善の処置方法だった。僕は医者として、ただ目の前の命を救おうとしただけ」


自嘲めいた溜息と共に吐き出した言葉達の響きは、懺悔のそれによく似ていた。
もちろん、一切の私情を挟まずメスを握った事に後悔はない。

ユノの過去も、未来も。
全て纏めて共に在りたいと願ったのだから。


「でも、僕もただの男ですから。緊急オペが終わってICUであなたの寝顔を見た時に自分の中で覚悟を決めました。こんな形ではありますが、それでもあなたが望む限りずっと傍にいようとね」


話しながら、ゆっくりと抱きしめていた腕の力を弱める。
するとこちらに体重をかけたままだったユノの身体がするすると滑り落ち、左脚の上に折り重なるようにして寄り添われた。


「チャンミンは俺の目を見て、一人の人間として扱うと言った。それに応えるつもりがないのなら、俺は手を取るべきではなかったんだ。チャンミンだけじゃない、俺もこんな形を望んだんだ」


白と黒で彩られた室内に、柔らかく透明な告白がゆらり漂う。
純度の高い静けさに瞳を閉じて彼の艶やかな髪を優しく撫でれば、膝の上に置かれた小さな頭がぴくりと動いた。


「まだ季節が一巡りもしていないんです。どうしようもなく気分の沈む日もあるでしょう。そんな時は、一人で抱え込まないで。それだけ約束して下さい」


再び露わになった首元へ顔を寄せる。
吹き込んだ懇願に念を押すかのごとく、耳たぶを軟かく噛んだ。
おずおずと控え目に引かれた頤に、くすりと小さく笑って窓の外で風に揺られてなびく木々を見つめた。


「あぁ、今日は涼しくなりそうですね」


もうすぐ、空が高く澄んだ秋がやってくる。


end


チャンミンとユノの馴れ初め?みたいな・・・・

チャンミン24歳、ユノ19歳の頃の話。

まだ続くかな……?