(再)続・和の国を斬る
現在の日本のさまざまなことに和がしみついているのを感じます。
渡部昇一さんの著作、「日本・そして日本人」は名作です。
彼は和という言葉はあまり使っていませんが、農耕民族だった日本人は正義を貫くことよりも周囲と協調していくことを大切にするとして、たとえば体育の時間に跳び箱が既に飛べるからいい加減に練習していた小学生よりも、跳び箱が飛べなくても一生懸命練習していた小学生に良い成績をつけたりするなどさまざまな例をあげています。
私は、日本が早く和の国を卒業し、正義のためには怒ることの大切さをしってほしい。また、論争というものは、あくまでその主題についての争いにすぎず、全人格を否定しているのではないということを早く理解してほしい。
和のまずい点
1 実力者が活躍できない
実力というものは数字ではっきり表れるものではありません。実力ある者をとりたてようとすると、争いが起き、しこりが残る。
そこで和の国日本では、「年齢が高い者が上」など、誰しも文句がつけようがない基準で地位などが決められがちです。これでは若いうちは実力があっても中々能力を発揮できない。
目の前での争いは少ないかも知れませんが、これでは国際競争で勝てるわけがない。
2 強い主張が通ってしまう。
私がやっている「世界連邦運動」という平和運動などは、それこそ争いを好まない「いい人」が集まっています。
時々、「自分の意見が聞き入れられないならば、やめてやる」などと主張する人が出ますと、その意見が正当かどうか、多数かどうかに関係なく、和を保つためにその人の意見に引きずられる傾向があります。
前にも例をあげましたが、部落差別も和と関係あると思います。
「和ならば、むしろ被差別部落出身者とも仲良くするのではないか」と思うかもしれませんが、私に言わせれば、現在の和なんてものは、同質の小集団だけで通用している馴れ合いであって、かえって博愛精神のさまたげになっていると思うのです。(註)
多分、部落差別の意識がある人はそんなにはいない。
でも被差別部落の人と結婚するとなると、大勢いる親戚の中で1人くらい「だったら縁を切る」とか言い出すバカが出てくる。
そうすると和の精神あふれる人が「他にもいい人はいるでしょう」などと一見優しいことを言うようでいて、親戚づきあいという小集団の和を平等・博愛よりも優先させるわけです。
私は和がどうなろうが、親戚関係が気まずくなろうが、部落差別意識ある親戚をつるし上げることが大切だと思っています。
多分、いろいろな教育者が、「みんなと仲良くしなさい。親兄弟の言うことをよく聞きなさい」と言うことでしょう。
私くらいは塾生の皆さんに言っておきます。
「いざとなったら親兄弟と喧嘩する心構えを持っていてください。特に、結婚と就職の時までには親兄弟と喧嘩できるようにしておいてください。」と。
さて、少し例は異なりますが、「運動会を中止しないと火をつける」「その本の出版記念会をやったらただではおかない」などという脅しがあると「万一の場合を考え、みんなの安全のため」と称して運動会や出版記念会を中止したりします。
私はいつも思うのですが、だったら、「中止したらただじゃおかない」と反対向きの脅しもかけたらどちらを優先するのでしょうか。
やはり、「争いが起きない」ことを最優先するのではなく、何が正義かを考えるべきなのではないでしょうか。
註・・「和と民主主義」についての私の文章を読んだ世界連邦前次長・木戸寛孝氏より異論があった。彼に言わせると、「今の日本は本当の和になっていないのだ」と言う。
このあたりは定義の違いであり、そういう言い方もあろう。
現状の和を和としてその問題点を主張するのが私、現状は本当の和ではなく、本当の和はもっと素晴らしいものだというのが木戸氏である。
私の友人がイギリスの大学に留学しました。
期日までに課題を提出できませんでした。彼は優秀だったこともあり、ある程度のお金が大学から出るのですが、それだけでは足りません。アルバイトで学費・生活費を稼ぎながら勉強するのは大変でした。そういったこともあって遅れたのだということをバババーッと主張した後、ふと彼は我にかえり、「あ、でもこんなの言い訳ですよね」と言いました。
すると、教授が言ったそうです。
「いや、同じ遅れたにしても、それなりに理由があって遅れた人と単になまけて遅れた人をきちんと区別して評価するのが私の仕事である。だからそういうことは言ってくれた方が良い」
私は感動しました。「言い訳するな、自己主張するな。はいはいと言って従え」という社会よりも健全だと思いました。
先日、日本にいるイスラム教の人の世話をしている人の話を聞きました。
イスラム社会では、真剣に聞く時に腕組みをするそうです。
日本では、上司の話を腕組みして聞いていたら、生意気だと思われます。そして、説明もしないでクビにしてしまう。
「なんて日本人は冷たいのだ」と言う人が後を絶たないそうです。
私は日本人は優しくて温かい人が多いと思っています。
しかし、和の文化の中で、自己主張してはいけない、言い争いをしてはいけない、周りに合わせるのが当然だという生き方がしみついてしまいました。
これは似たような価値観を持つ小集団の中ならば良いのですが、異なる価値観・異なる文化の人には通用しません。
異なる文化・異なる価値観の人とも仲良くするためには、しっかりと自己主張し、言葉で伝えていくということが必要です。
オタクのコーナー
AKBのことは応援したくないのだが、柏木何とかという人がスーツ姿で脚を組み換えるコマーシャルがたまらん。
・・・と思いつつ、このコマーシャル、まだ1回しか見たことがない。
本年の日テレジェニック6人が決まった日、VAPという会社からDVDを出す人が3人選ばれた。
6人のうち、1・3・6位の人だった。
次に映画に出る人が1人選ばれた。6位の人だった。
なんで最下位当選の人がここまで優遇されるのか不明である。
が、一方、首都圏に住むごくごく一部のオタクども(私も含む)のみで結果が決まるのでは、投資する側にとってリスクが高すぎる。
私個人は1位の葉月あやさん推しだったが、6位の小泉ここさんは、また素人オタクから見たのと異なる、玄人から見ての才能があったということか。
渡部昇一さんの著作、「日本・そして日本人」は名作です。
彼は和という言葉はあまり使っていませんが、農耕民族だった日本人は正義を貫くことよりも周囲と協調していくことを大切にするとして、たとえば体育の時間に跳び箱が既に飛べるからいい加減に練習していた小学生よりも、跳び箱が飛べなくても一生懸命練習していた小学生に良い成績をつけたりするなどさまざまな例をあげています。
私は、日本が早く和の国を卒業し、正義のためには怒ることの大切さをしってほしい。また、論争というものは、あくまでその主題についての争いにすぎず、全人格を否定しているのではないということを早く理解してほしい。
和のまずい点
1 実力者が活躍できない
実力というものは数字ではっきり表れるものではありません。実力ある者をとりたてようとすると、争いが起き、しこりが残る。
そこで和の国日本では、「年齢が高い者が上」など、誰しも文句がつけようがない基準で地位などが決められがちです。これでは若いうちは実力があっても中々能力を発揮できない。
目の前での争いは少ないかも知れませんが、これでは国際競争で勝てるわけがない。
2 強い主張が通ってしまう。
私がやっている「世界連邦運動」という平和運動などは、それこそ争いを好まない「いい人」が集まっています。
時々、「自分の意見が聞き入れられないならば、やめてやる」などと主張する人が出ますと、その意見が正当かどうか、多数かどうかに関係なく、和を保つためにその人の意見に引きずられる傾向があります。
前にも例をあげましたが、部落差別も和と関係あると思います。
「和ならば、むしろ被差別部落出身者とも仲良くするのではないか」と思うかもしれませんが、私に言わせれば、現在の和なんてものは、同質の小集団だけで通用している馴れ合いであって、かえって博愛精神のさまたげになっていると思うのです。(註)
多分、部落差別の意識がある人はそんなにはいない。
でも被差別部落の人と結婚するとなると、大勢いる親戚の中で1人くらい「だったら縁を切る」とか言い出すバカが出てくる。
そうすると和の精神あふれる人が「他にもいい人はいるでしょう」などと一見優しいことを言うようでいて、親戚づきあいという小集団の和を平等・博愛よりも優先させるわけです。
私は和がどうなろうが、親戚関係が気まずくなろうが、部落差別意識ある親戚をつるし上げることが大切だと思っています。
多分、いろいろな教育者が、「みんなと仲良くしなさい。親兄弟の言うことをよく聞きなさい」と言うことでしょう。
私くらいは塾生の皆さんに言っておきます。
「いざとなったら親兄弟と喧嘩する心構えを持っていてください。特に、結婚と就職の時までには親兄弟と喧嘩できるようにしておいてください。」と。
さて、少し例は異なりますが、「運動会を中止しないと火をつける」「その本の出版記念会をやったらただではおかない」などという脅しがあると「万一の場合を考え、みんなの安全のため」と称して運動会や出版記念会を中止したりします。
私はいつも思うのですが、だったら、「中止したらただじゃおかない」と反対向きの脅しもかけたらどちらを優先するのでしょうか。
やはり、「争いが起きない」ことを最優先するのではなく、何が正義かを考えるべきなのではないでしょうか。
註・・「和と民主主義」についての私の文章を読んだ世界連邦前次長・木戸寛孝氏より異論があった。彼に言わせると、「今の日本は本当の和になっていないのだ」と言う。
このあたりは定義の違いであり、そういう言い方もあろう。
現状の和を和としてその問題点を主張するのが私、現状は本当の和ではなく、本当の和はもっと素晴らしいものだというのが木戸氏である。
私の友人がイギリスの大学に留学しました。
期日までに課題を提出できませんでした。彼は優秀だったこともあり、ある程度のお金が大学から出るのですが、それだけでは足りません。アルバイトで学費・生活費を稼ぎながら勉強するのは大変でした。そういったこともあって遅れたのだということをバババーッと主張した後、ふと彼は我にかえり、「あ、でもこんなの言い訳ですよね」と言いました。
すると、教授が言ったそうです。
「いや、同じ遅れたにしても、それなりに理由があって遅れた人と単になまけて遅れた人をきちんと区別して評価するのが私の仕事である。だからそういうことは言ってくれた方が良い」
私は感動しました。「言い訳するな、自己主張するな。はいはいと言って従え」という社会よりも健全だと思いました。
先日、日本にいるイスラム教の人の世話をしている人の話を聞きました。
イスラム社会では、真剣に聞く時に腕組みをするそうです。
日本では、上司の話を腕組みして聞いていたら、生意気だと思われます。そして、説明もしないでクビにしてしまう。
「なんて日本人は冷たいのだ」と言う人が後を絶たないそうです。
私は日本人は優しくて温かい人が多いと思っています。
しかし、和の文化の中で、自己主張してはいけない、言い争いをしてはいけない、周りに合わせるのが当然だという生き方がしみついてしまいました。
これは似たような価値観を持つ小集団の中ならば良いのですが、異なる価値観・異なる文化の人には通用しません。
異なる文化・異なる価値観の人とも仲良くするためには、しっかりと自己主張し、言葉で伝えていくということが必要です。
オタクのコーナー
AKBのことは応援したくないのだが、柏木何とかという人がスーツ姿で脚を組み換えるコマーシャルがたまらん。
・・・と思いつつ、このコマーシャル、まだ1回しか見たことがない。
本年の日テレジェニック6人が決まった日、VAPという会社からDVDを出す人が3人選ばれた。
6人のうち、1・3・6位の人だった。
次に映画に出る人が1人選ばれた。6位の人だった。
なんで最下位当選の人がここまで優遇されるのか不明である。
が、一方、首都圏に住むごくごく一部のオタクども(私も含む)のみで結果が決まるのでは、投資する側にとってリスクが高すぎる。
私個人は1位の葉月あやさん推しだったが、6位の小泉ここさんは、また素人オタクから見たのと異なる、玄人から見ての才能があったということか。