身近な幸せと接待 | アトラス塩浜のブログ

身近な幸せと接待

毎日は「しあわせだなあ」で溢れている
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=116&from=diary&id=2307749

私は子犬が一目散に走ってきて飛びついてくると幸せ。

引用ニュースは日常のささやかな幸せを書いており、私も共感できるものが多い。

昔から不思議なことがある。
高級官僚を銀座の店で接待するなどの話をよく聞くが、贈収賄だとか、そういう話を別にしても、そもそもその接待を受ける側にとって、そんなことが嬉しいものだろうか?

あるいは「今日は結婚記念日だから」などと言って妻を1万円のコース料理の店に連れていくという話があったりする。
「私のためにそれだけのお金をかけても良いと思ってくれた」という気持ちは嬉しいとしても、その料理そのものはうまいのか。

ふぐ、まつたけ、鯛、コース料理など、高い物はおおよそうまそうに見えない。
別に現時点の自分がそういうものに金をかける余裕がないので負け惜しみを言っているというのではない。
私が年収1億円になろうが、あまり食いたくないのである。

何なら、金持ちが来て、コース料理とかつ丼と、どちらか好きな方をおごってくれるとしても、私はかつ丼を選ぶ。
みんながコース料理を食べている隣で私だけかつ丼を食べるというのでも構わない。

銀座の店で接待というのも、何が良いのか、まったくわからない。

もちろん、私は仕事上の必要があれば、表面上喜び、感謝しているふりをするくらいのことは、「これも世界連邦のため、ひいてはみんなのため、地球のためだ」と思って我慢する。

しかし、ぜひ知りたいのは、
こういうので嬉しい人・・・ア
がどのくらいの割合でいて、一方で
私のように仕事上の付き合いだと思って心の中で迷惑に思いながら耐えている人・・・イ
がどのくらいの割合でいるのかということだ。

別に後者イもちょくちょくいるというならば、私だって頑張る。
しかし、私が変わっているだけで、ほとんどのアだとすると、本当に困る。

接待した側は完全に自らのおごりにより、こちらに貸しを作った気になっているわけである。
こちらも精一杯喜び感謝したふりをしているが、心の中で迷惑に思っていて、本当はこっちが貸しを作ったくらいの思いがある。

いつの日か、別のことでもめた時に、この「貸し」の思いによっていっそう怒りが増幅されてしまいそうである。
向こうは「散々おごってやったのに」「
こちらは「散々こちらの時間を奪ってつまらねえところに連れていきやがって」

「だったら、早めに本当のことを言ったら?」
といきたいが、そもそも接待なんてものは、本音を言えないような関係の状態で一層お近づきになるために行われるわけで、中々本当のことは言えない。

また、アの人が徹底的に多い場合、いくら厭だと言っても、遠慮していると思われるだけであろう。

また、こちらが接待なり、あるいは女性におごる立場の時も、自分が良いと思わないものについて、店の選びようがない。

ついでに言うと、母親は京都の漬物が好きなのだが、自分が漬物に興味がないので、試食してもどれが良いのかわからないのである。

今、身近でささやかな喜びを見出す人が増えているとしたら、嬉しいことである。