今こそ意識革命を | アトラス塩浜のブログ

今こそ意識革命を

今こそ意識革命を

原子力発電事故について、今回は「想定外」の規模の地震や津波が起きたということである。

だから言わんこっちゃない、我々反対派は、以前から「地震の時はどうする」「津波の時はどうする」と言ってきたじゃないか。

私は道義的責任を問う気はない。

まあ、「想定外」だったのだろう。

想定外のことは起きるのである。

これからもっと科学が進歩しようが、いかに誠実に計算し、シミュレーションを繰り返そうが、想定外のことは起きるのである。

私は神を信じていないが、多くの宗教が強調する「人間は不完全である」ことには賛成だ。科学を盲信するのもやめてほしい。

原発なんかいくら気をつけていても事故を起こす。これからも、必ず。

東京電力の道義的責任を問うつもりはないが、逆に言えば、通常の責任の範囲を全うしても事故が起きるからやっかいなのだ。

いざという時に、手動でも何でもいいから制御できないようなことは、最初から踏み出すべきではないのだ。

「こういうのは神の領域だ。人間ごときがうぬぼれて手を出すな」と、あえて言いたくなる。

これは原発のみならず、バイオテクノロジー、あるいは大脳生理学なども、人間ごときが神の領域に踏み出したことで「想定外」のしっぺがえしを受けることになりかねない。

この2つ、原発よりも怖いかも知れない。

神の領域まで踏み込まなくとも、人間は、自然エネルギーの範囲で、満足して心から幸せを感じていけばよいし、それは必ずできる。

より多く、より遠くに、より速く・・・という文明の下では、必要なエネルギー・資源はどんどん膨大になっていく。

それは滅びの方向である。

使うエネルギーが大きいほど危険性は増すし、環境は破壊される。

そして、そこに終わりはない。

いくら新しいものが発明されようとも、次々と欲望があおられる。

ウルトラセブン26話ではないが、それは血を吐きながらも続ける悲しいマラソンですよ。

ブランドのバッグを持って何が幸せなのか。

東洋には、「足るを知る」という美しい思想がある。

10000円の食事をおごられて、

「どうして、1万5千円のコースにしてくれなかったのか」と不満に思っていれば、不幸である。

おにぎり1個で幸せを感じれば幸せである。

「キスから先に進めない、おくびょうすぎるの」と思っていれば不幸である。

皆さん、小学生の時、同級生がにっこりして挨拶してくれたことで幸せいっぱいになったことはないか?

それは子供のくだらない思いなのか?

「プレゼントしたのにやらせてもらえなかった」とブツブツ言っている人こそ、本当の幸せがわからない可哀そうな状態になってしまったのではないか?

身の回りを見て、自分がいかに幸せいっぱいかということをかみしめてほしい。

「あれがない、これがない、あれがほしい、これもほしい」と思っていたらきりがない。

なんと、満ち足りているのか、それを知ることが幸せへの一歩である。

こういうと、

「それでは進歩がない」という反論が来るのがパターンである。

そういう人が言う「前」が「前」だということが本当なのか?

より遠くへ、より速く、より多く・・・をひたすら追求し、大量に資源・エネルギーを消費し、危険性を増すことのどこが「進歩」なのか?

未来の子供たちに顔向けできるのか?

今はどうだか知らないが、愛する母校獨協大学は、初代学長の思いにより、哲学が必修とされていた。

初代学長の思いとは別に、単にソクラテスやらカントやらの言葉を、教授がボソボソ話すものになり下がっていたが、人類の進歩の方向とはどこにあり、科学が踏み出して良い領域とはどこなのか、そういった哲学が求められているということを、このたびの災害は我々につきつけていると言えよう。